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松田 国英

松田 国英(まつだ くにひで、1950年9月28日 - )は日本中央競馬会 (JRA) の調教師である。栗東トレーニングセンター所属で、競馬ファンからは松国と呼ばれることが多い。


[編集] 来歴
北海道の競走馬を生産する牧場の息子として生まれる。競馬専門紙のトラックマン、伊藤修司厩舎などでの調教助手を経て、1995年に調教師免許を取得。

初出走は1996年11月30日の中京競馬第4競走でのタニノポリシー(10着)。初勝利は1997年2月8日の小倉競馬第2競走でのタニノマウナケア(延べ28頭目)であった。


[編集] こだわりと批判
1600mと2400m異なる距離のGIで好走すれば、引退後に種牡馬としての価値が高まると考えており、3歳時にはNHKマイルカップから東京優駿というローテーションを採用することが多い。2001年にクロフネで初めて挑み、NHKマイルカップで優勝するが東京優駿では5着。翌2002年のタニノギムレットの場合は、皐月賞3着の後NHKマイルカップで3着に入り、東京優駿で優勝した。そして2004年、キングカメハメハでついに両GIを制覇した。なお、日本の現役調教師で東京優駿を2勝しているのは松山康久と瀬戸口勉、松田の3人だけである。また、2006年にもフサイチリシャールが同様のローテーションを取った(皐月賞5着、NHKマイルカップ6着、東京優駿8着)。3歳の秋のローテーションではクラシック路線の菊花賞には拘らず、クロフネやキングカメハメハなどは天皇賞(秋)を目指していた。

藤沢和雄や山内研二らと同様に、「馬の調子がいいときにはどんどん使う」という考えの持ち主でもあり、短期間で数多の重賞優勝馬を輩出したが、クロフネ、タニノギムレット、キングカメハメハが古馬になる前に故障で引退してしまったことや、ハードなローテーションを採用することで、一部の競馬ファンからは「馬壊し屋」として批判の対象となっている。


[編集] 代表管理馬
クロフネ(ジャパンカップダート、NHKマイルカップ)
タニノギムレット(東京優駿)
キングカメハメハ(東京優駿、NHKマイルカップ)
ダイワエルシエーロ(優駿牝馬)
フサイチリシャール(朝日杯フューチュリティステークス)

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

松田 博資

松田 博資(まつだ ひろよし、1946年1月29日 - )はJRAの調教師。




目次 [非表示]
1 データ
1.1 略歴
1.2 所属場歴
1.3 表彰歴
2 代表管理馬
3 所属騎手
4 関連項目



[編集] データ
出身地:佐賀県
所属場:栗東トレーニングセンター
初出走:1983年3月19日 1回小倉3日目 第1レース、ハツシゲ(14着)
初勝利:1983年4月23日 3回京都1日目 第7レース、ボールドスミス(のべ2頭目)

[編集] 略歴
1981年 - 調教師免許を取得
1983年 - 厩舎開業

[編集] 所属場歴
1981年~:栗東トレーニングセンター

[編集] 表彰歴
2003年 優秀調教師賞(関西)
2006年 最多賞金獲得調教師賞
2006年 優秀調教師賞(関西)
2006年 JRA賞(最多賞金獲得調教師)




[編集] 代表管理馬
コスモドリーム(1988年オークス)
ベガ(1993年桜花賞、オークス)
ブゼンキャンドル(1999年秋華賞)
アドマイヤドン
タイムパラドックス

[編集] 所属騎手
高田潤

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

松永 幹夫

松永 幹夫(まつなが みきお、1967年4月10日 - )は日本中央競馬会(JRA)の元騎手で、現在は調教師である。血液型はO型、熊本県合志市(旧・菊池郡西合志町)出身。

童顔で甘いマスクを持ち、デビュー直後から女性ファンが多くついた。いわゆるアイドル視される騎手のはしりで、競馬場に多くの若い女性が訪れるきっかけともなった。名前をもじってミッキーという愛称でも呼ばれる。

目次 [非表示]
1 来歴
2 成績
2.1 騎手成績
2.2 GI競走勝利一覧及び当該競走における騎乗馬(年度別)
2.3 表彰歴
3 エピソード



[編集] 来歴
JRAの競馬学校の第2期生。1986年にデビュー。同期には横山典弘、熊沢重文らがいる。初騎乗は1986年3月1日、阪神競馬第1競走のインターアビリティで、13頭立ての12着だった。初勝利は同年3月23日、阪神競馬第7競走で、ツルマイスワローに騎乗してものであった。

1988年の函館3歳ステークスをサザンビーナスで制して重賞初勝利。1991年にはイソノルーブルで優駿牝馬(オークス)を制しGI初勝利。

その後も活躍を続けるがゼネラリストの調教中に落馬事故で腎臓を摘出し、休養に入る。復帰後、1996年の第1回秋華賞をファビラスラフインとのコンビで快勝。翌1997年には、キョウエイマーチに騎乗して桜花賞に勝利。しかも同期で後に二冠牝馬となるメジロドーベルを破ってのものである。秋シーズンでも秋華賞をメジロドーベルの2着、マイルチャンピオンシップでもタイキシャトルの2着と好走した。

2000年にはチアズグレイスで桜花賞を、ファレノプシスでエリザベス女王杯を制した。現役騎手時代に牝馬限定GIで勝てなかったレースは、2歳GIの阪神ジュベナイルフィリーズのみであった。

このように牝馬限定重賞で活躍することが多いため「牝馬の松永(ミキオ)」と呼ばれることもある。また、ダートの短距離での逃げ・先行のうまさには定評がある。その反面、(腰痛の持病もあり)追込脚質の馬を苦手とした。1997年の牡馬クラシックで主役を張ったメジロブライトはまさにその典型で、勝てたのはラジオたんぱ杯3歳ステークスと共同通信杯4歳ステークスのみで、本番ではサニーブライアン(皐月賞、東京優駿)とマチカネフクキタル(菊花賞)に敗れ、松永も菊花賞を最後にメジロブライトの鞍上を下りることとなる。(菊花賞の次走からは河内洋が騎乗)

かといって牡馬がまったくダメだったというわけではなく、ダートで活躍したカネツフルーヴやレギュラーメンバー、素質は認められながら脚部不安で大成し切れなかったマイシンザンなども松永が騎乗していた。

2005年にはヘヴンリーロマンスに騎乗し、天皇賞(秋)を制した。これは松永自身、牝馬限定以外では初のJRAGI勝利(※1)である。所属厩舎でのJRAGI初勝利、エアグルーヴ以来の牝馬の天皇賞制覇、3連単の配当が100万円を超えるなど、記録ずくめの勝利となった。またこの競走は、日本の中央競馬史上初めて、天覧競馬として施行され、ヘヴンリーロマンスで優勝を決めた後、メインスタンドの特設会場で観戦した今上天皇・皇后に向かい、馬上から(※2)、ヘルメットを脱いで敬礼をした。レース後、「天皇賞も牝馬で勝ったのが自分らしい」とコメントした。

2006年度JRA調教師試験に合格したためわずか38歳で鞭を置くこととなった。調教師試験は競馬関係者にとっても非常に難関な試験として有名である(中には10回以上受験した者もいる)が、わずか1回の受験で見事に合格した。本人としては、若くて元気のある内に調教師になりたかったと語っているが、2007年に自分の所属する山本正司調教師が定年により厩舎を解散することが決定していたことも大きいといわれている。

騎手としての最終騎乗日となった2006年2月26日の阪急杯でブルーショットガンに騎乗、出走馬14頭中11番人気という低人気だったが見事優勝し、続く最終競走でもフィールドルージュで勝利。引退レースにてJRA通算1400勝を飾るというあまりにも劇的な有終の美を飾った。最終騎乗日に重賞に勝ったのは1975年2月16日の野平祐二が目黒記念でカーネルシンボリに騎乗して勝利した例がある。

2007年2月で引退した師匠の山本の後を継ぎ、3月1日に厩舎を開業。3月4日の阪神競馬場でダノンシャトルで厩舎開業後、初めてレースに出走した(鞍上は四位洋文騎手)。道中は先行したが、直線で伸びきれず5着に終わった。


[編集] 成績

[編集] 騎手成績
JRA通算 12416戦1400勝(うち重賞54勝、GI6勝)
地方競馬通算 191戦32勝(うちGI5勝)

[編集] GI競走勝利一覧及び当該競走における騎乗馬(年度別)
(カッコ内は騎乗馬名。また、斜字は統一GIを指す)

1991年
優駿牝馬(イソノルーブル)
1996年
秋華賞(ファビラスラフイン)
1997年
桜花賞(キョウエイマーチ)
2000年
桜花賞(チアズグレイス)、ダービーグランプリ(レギュラーメンバー)、エリザベス女王杯(ファレノプシス)
2001年
川崎記念(レギュラーメンバー)、JBCクラシック(レギュラーメンバー)
2002年
帝王賞(カネツフルーヴ)
2003年
川崎記念(カネツフルーヴ)
2005年
天皇賞(秋)(ヘヴンリーロマンス)

[編集] 表彰歴
関西放送記者クラブ賞(新人騎手賞) - 1986年
優秀騎手賞(勝利度数部門) - 1987年、1989年、1991年、1995年、1997年、2000年
優秀騎手賞(勝率部門) - 1989年、1997年
優秀騎手賞(賞金獲得部門) - 1989年、1997年、2000年
フェアプレー賞(関西) - 1987年、1992年~1994年、1997年~2001年、2004年

[編集] エピソード
牝馬のミッキーと言われているが実際に「この馬はGIを勝てる」と意識したのは1987年、藤森特別のある芦毛馬(タマモクロス)であるらしい。しかし、その馬は南井克巳が主戦騎手だったのであきらめざるを得なかったとか。
武豊とともに子供が生まれない夫婦として有名だったが、2005年に双子が誕生し、父親となった。
1000勝で調教師試験の一次試験が免除となる規定が廃止された2003年以降、調教師試験を一発合格した1000勝以上の現役騎手は松永が初めてである。
騎手として最後の騎乗となった2006年2月26日は、出身地である熊本県西合志町が隣の合志町と合併し合志市となるのに伴い、西合志町として最後の日でもあった。
※1 ダートグレード競走では、カネツフルーヴ(帝王賞、川崎記念)、レギュラーメンバー(ダービーグランプリ、川崎記念、JBCクラシック)と山本正司厩舎所属の牡馬でGIを勝利している。
※2 騎乗馬が故障した場合を除き、競走後にコース内で騎手が下馬することは禁止されている。

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

松山 吉三郎

松山 吉三郎(まつやま きちさぶろう、1917年2月2日 - 2006年12月20日)は、元騎手(東京競馬倶楽部、日本競馬会、国営競馬)、元調教師(国営競馬、日本中央競馬会(JRA))。JRA調教師顕彰者。1929年、東京都目黒区油面尋常小学校卒業。鹿児島県隼人町出身。妹はバレエダンサーの松山樹子。父の松山徳茂は戦前の日本競馬会の元調教師。息子の松山康久はJRAの調教師(ミスターシービーやジェニュインを管理)。

目次 [非表示]
1 経歴
2 成績
2.1 騎手成績
2.2 調教師成績
2.2.1 主な勝ち鞍
2.2.2 受賞
3 門下生



[編集] 経歴
実家はもとは農家であったが、父・徳茂が上京し東京競馬場・尾形藤吉厩舎の厩務員となったため、東京へ移り住んだ。

1929年、尾形藤吉厩舎の見習騎手となる。尾形の指示により1933年まで千葉県の若草牧場で牧夫として働き、1934年に騎手免許を取得。1935年4月2日、レイロウで初騎乗、1936年3月28日、アカイシタケで初勝利。しかし大久保亀吉、保田隆芳ら名騎手を数多く抱えていた尾形厩舎の中にあって騎乗機会に恵まれず、また肺結核を患ったこともあって騎手としては目が出ず、専ら尾形のもとで厩舎の実務を取り仕切る現場責任者の役割を果たした。

なお、1936年に父・徳茂が調教師免許を取得し鳴尾競馬場で厩舎を開業すると尾形厩舎を離れて移籍したが、1938年に厩舎の所属騎手が起こした八百長事件を理由に徳茂が調教師免許取り消しの処分を受けたため、松山は尾形厩舎に復帰した。

太平洋戦争では肺結核の既往症を理由に兵役を免除され、競馬開催が一時停止に追い込まれると東北地方で日本競馬会の運送業(挽馬機動隊)に従事した。

1950年8月10日、調教師免許を取得。1951年1月5日、ヤシマザクラで初出走、同年5月12日初勝利を挙げる。1952年、スウヰイスーで桜花賞、優駿牝馬(オークス)、安田賞(現在の安田記念)に勝利。しかしスウヰイスーは実際には師匠である尾形藤吉の管理馬であり、いわば調教師の名義を貸していたに過ぎなかった(ちなみに、当時名義貸しは違法ではなかった)。

その後徐々に調教師として自立していった松山は、1956年と1958年に年間最多賞を記録。スターロッチ、モンテプリンス、ダイナガリバーなど数多くの名馬を送り出した。

JRAが調教師の70歳定年制を導入したため、1994年2月27日に引退式を行い、翌28日付で調教師を引退。調教師としての通算勝利度数1358勝は、尾形藤吉に次ぐJRA史上第2位の記録である。

2004年、調教師顕彰者として殿堂入りした。

2006年12月20日17時10分、89歳で肺炎のため亡くなった。


[編集] 成績

[編集] 騎手成績
資料がないため不明


[編集] 調教師成績
通算成績9157戦1358勝、重賞55勝


[編集] 主な勝ち鞍
天皇賞(春)(1959年トサオー、1982年モンテプリンス、1984年モンテファスト)
有馬記念(1960年スターロッチ、1986年ダイナガリバー)
宝塚記念(1982年モンテプリンス)
東京優駿(日本ダービー)(1962年フェアーウイン、1986年ダイナガリバー)
優駿牝馬(オークス)(1952年スウヰイスー、1960年スターロッチ)
桜花賞(1952年スウヰイスー)
中山大障害(春)(1955年、シマユキ)

[編集] 受賞
全国リーディングトレーナー(1956年、1958年)
優秀調教師賞(関東)(1958年、1959年、1961年-1965年、1987年、1992年)
調教技術賞(関東)(1965年、1967年、1969年-1973年、1978年、1979年、1985年)
重賞獲得調教師賞(1986年)
スポーツ功労者 文部科学大臣顕彰(1992年度)

[編集] 門下生
吉永正人
中神輝一郎
竹原啓二
沢峰二
松山康久

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

松山康久

松山康久(まつやま やすひさ 1943年9月4日-)は東京都出身の日本中央競馬会所属の調教師である。 父は元調教師の松山吉三郎。

三冠馬ミスターシービーをはじめ、ウィナーズサークル、ジェニュインなど多くの名馬を手がけた。

目次 [非表示]
1 来歴
2 成績
3 主な管理馬
4 受賞



[編集] 来歴
1966年父・吉三郎の厩舎で調教助手となる。その後1974年に調教師免許を取得し、開業。

初出走は1976年3月6日2回中京7日目第9レースでラスティー(3着)。 初勝利は同年5月3日3回東京1日目第2レースでクロバーウィング(延べ11頭目)。 重賞は1977年の朝日杯3歳Sをギャラントダンサー(吉永正人騎乗)で初勝利。

クラシックは日本ダービーを2勝(ミスターシービー、ウィナーズサークル)、皐月賞を2勝(ミスターシービー、ジェニュイン)している。

父の門下生である吉永正人、竹原啓二を主戦として騎乗させていた。現在は柴田善臣、横山典弘、後藤浩輝の起用が多い。


[編集] 成績
6022戦854勝(重賞36勝) ―2007年3月7日現在


[編集] 主な管理馬
※カッコ内は主な勝ち鞍

ミスターシービー(三冠馬)
ウィナーズサークル(日本ダービー)
ジェニュイン(皐月賞、マイルCS)
ギャラントダンサー(朝日杯3歳S)
ワシントンカラー(ガーネットS、根岸S)
ダイワレイダース(七夕賞)現役
クロカミ(京王杯AH府中牝馬S )
ニフティニース(セントウルS、関屋記念)

[編集] 受賞
調教技術賞(関東)・・・1979年~1982年
最優秀調教師賞・・・1983年
優秀調教師賞(関東)・・・1985年~1987年、1989年、1990年、1992年~1994年、1996年~1998年、2000年、2002年。2003年
JRA賞(最多勝利調教師)・・・1994年
最多勝利調教師賞・・・1994年

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的場 均

的場 均(まとば ひとし、1957年3月25日 - )は、北海道新冠町出身の日本中央競馬会の元騎手で、現在は調教師。柄崎孝調教師は妻の兄。次男の的場勇人が、2006年3月に中央競馬騎手としてデビューした。


[編集] 来歴
北海道新冠町の農家の10人兄弟の末っ子として生まれる。家が競走馬の生産牧場をやっていた事から、2歳のころから馬に乗るようになる。4歳の時に父親に連れて行かれた札幌競馬場で初めて競馬を見て、騎手を志すようになる。

中学卒業後、馬事公苑長期騎手講習を受験するが不合格。大久保房松調教師に弟子入りし、短期騎手講習を経て1974年に騎手免許を取得。翌1975年3月8日、タイコウヒメで初騎乗。同年7月6日にリュウセイで初勝利。

1976年、ジャンボキングでスプリンターズステークスに勝って重賞初勝利。翌1977年には関東リーディング5位に浮上する。1990年、ドクタースパートで皐月賞を勝ち、グレード制導入後GI初勝利。なお、GI級の重賞初勝利は1983年の朝日杯3歳ステークス(優勝馬ハーディビジョン)。

ライスシャワーとのコンビでは全国区の人気を集めた。1992年の菊花賞で三冠馬を目指すミホノブルボンを破り、翌1993年の天皇賞(春)ではメジロマックイーンの同レース3連覇を阻止するなど、歴史的な記録を相次いで阻止したため、的場とライスシャワーは「関東の刺客」「マーク屋」「業師」「仕事人」などと呼ばれた。ちなみに的場が勝ったレースを実況したことが多い関西テレビの杉本清アナウンサーは彼のことを「この馬と決めたときは怖い。」(1993年天皇賞(春)、1999年宝塚記念)と言えば、後を継ぐ馬場鉄志アナウンサーも「京都の坂越えは的場均」(1997年エリザベス女王杯、2000年マイルチャンピオンシップ)と実況で使用していた。

騎手としての最晩年にはグラスワンダーとのコンビで再び全国区の人気を集め、1998年、1999年の有馬記念2連覇、1999年の宝塚記念を含めてグランプリ3連覇という大偉業を達成している。ちなみに的場はグラスワンダーと同世代のライバル・エルコンドルパサーの主戦騎手でもあったが、1998年の毎日王冠で2頭が直接対決することとなり、どちらに乗るか選択を迫られた的場は、迷った末にグラスワンダーを選んだ。グラスワンダーも前述の偉大な実績を残したがエルコンドルパサーも海外のGIに勝ち欧州最高峰のレース凱旋門賞で2着に入るなどして活躍したため、毎日王冠における的場の選択は競馬ファンの間で話題の種となった。

2001年2月28日に騎手を引退。生涯成績12309戦1440勝、重賞63勝、GI13勝(グレード制導入後)。

騎手時代の的場はGIで勝利してもウイニングランをしなかった。これは、全力で走った後の馬をまた走らせるのはかわいそうだから、ということだったらしい。また、ゴールした後は無事に馬を止めることが何より大事だという理由で、ゴール後にガッツポーズをすることもなかった。彼の優しい性格を物語るエピソードである。そのため、蛯名正義(ステージチャンプ)と武豊(スペシャルウィーク)は的場との接戦時に的場がアクションをしなかったこともあって差しきったと思いガッツポーズを行ってしまっている。(両名ともハナ差2着であった)




騎手を引退後は調教師に転進し、2002年に厩舎を開業した。初出走は同年3月2日中山競馬第8競走のローランドラグーンで、初勝利は同年6月1日中京競馬第8競走のユウワンキングで挙げた。

歌手のさだまさしと親交があり、通算1000勝を記念して、さだが作詞・作曲した『ひとりぽっちのダービー』という曲を歌ったCDシングルを出している。関係者にのみ配布されたもので市販はされていない。間奏に被せて、ライスシャワーで天皇賞を制覇した時の競馬実況が録音されている(ちなみに、さだ本人のCDに収録されているものは、『ダービー』だけに、ナリタブライアンが日本ダービーを制覇したときのものである)。

趣味はワイン。 座右の銘は「夢無限」「乗らずに馬がわかる日まで」。


[編集] 主な騎乗馬
カシマウイング - 的場とのコンビで重賞3勝。それに至るまでには2着14回の苦闘があった
ドクタースパート - 皐月賞を勝利、初めてクラシックを制覇
リンドシェーバー - 朝日杯3歳ステークスでマルゼンスキーのレコードを破る。
ライスシャワー  - ライスシャワーの項を参照。
カネツクロス - タマモクロスを代表する産駒の1頭。主に逃げの戦法で重賞を3勝した
スピードワールド - 大器といわれたが、早熟の馬で勝鞍は京成杯にとどまる。
グラスワンダー  - グラスワンダーの項を参照。
エリモシック   - エリザベス女王杯でダンスパートナーの連覇を阻む。
エルコンドルパサー - 蛯名正義の馬の印象が強いが、NHKマイルカップまでは的場騎乗で勝利。
エリモエクセル  - 優駿牝馬(オークス)で、後に二冠牝馬となるファレノプシスを破る。
アグネスデジタル - 四位洋文の馬の印象が強いが、全日本2歳優駿とマイルチャンピオンシップは的場騎乗で勝利した。

[編集] 著書
夢無限(流星社)

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

南井 克巳

南井 克巳(みない かつみ、1953年1月17日 - )は愛知県刈谷市出身の日本中央競馬会(JRA)の元騎手で現在は調教師。騎手としての成績は13120戦1527勝。名が示すとおり、巳年の生まれ。騎手の南井大志は長男。


[編集] 来歴
地元刈谷の祭り「万燈祭」で饗される古式競馬に惹かれ、騎手に憧れるようになる。隣町(愛知県豊明市)にある中京競馬場の厩舎に通い、工藤嘉見調教師に声をかけられ、1970年に騎手見習いとして入門する。
1971年騎手としてデビューする。
一時期、「大舞台」にも恵まれず、勝利数も上積みがないことからスランプに陥り引退も考えたという。
1978年宇田明彦厩舎に転属。
1987年小原伊佐美調教師からタマモクロスの騎乗を依頼される。このことが今後の南井の方向性を位置づける。タマモクロスは1987年の夏までは単なる条件馬にすぎなかったが、秋になると頭角を現し、条件戦をクリア、重賞初挑戦となる鳴尾記念を制し、翌1988年には金杯・西、阪神大賞典、天皇賞(春)、宝塚記念、天皇賞(秋)と6連勝を果たす。その後ジャパンカップと有馬記念は惜しくも2着だったが、連を外すことはなかった。後に南井も騎乗するオグリキャップとの死闘は競馬ブームのさなか、今まで見向きもされなかった芦毛の馬が脚光を浴びるようになる。
タマモクロスの騎乗により南井にも有力馬の騎乗依頼が多くなった。中でも特筆すべきはオグリキャップの全盛期と言うべき数え5歳秋の年の騎乗である。毎日王冠でのイナリワンとの死闘、天皇賞(秋)でのスーパークリークへの敗北(オグリは敗戦の悔しさのあまり、勝ったスーパークリークを睨み付けたまま動かなかったという)、マイルチャンピオンシップでの、絶望的な位置からの差し切り(南井はその勝負根性に感涙した)、連闘で迎えたジャパンカップでの世界レコードの激走など、「豪腕」と言われた南井は根性を剥き出しにして走るオグリキャップとは相性が良かった。多数の名手を鞍上に迎えたオグリキャップにとってもベストパートナーと言えただろう。
1993年、大久保正陽調教師から「まだダービーとったことないよね?」と言われてナリタブライアンへの騎乗を依頼され(大久保はこの発言を「トップジョッキーに対してそのような失礼なことは言わない」と否定している)、主戦騎手となる。翌1994年、ナリタブライアンは史上5頭目となるクラシック三冠の栄光に輝いた。
1994年年間GI5勝(ナリタブライアンで4冠+マーべラスクラウンでジャパンC)の大活躍で、JRA賞特別賞・日本プロスポーツ大賞殊勲賞を受賞した。また、年末の紅白歌合戦に審査員として出演。
1998年には悲運の名馬といわれたサイレンススズカへの代打騎乗で宝塚記念を制し、この馬唯一のGIタイトルをとった。
1999年に騎手を引退し、調教師となる。引退レースは自らの出発点であった中京競馬場で迎え、当日メイン、且つ自身のラストランであった準オープン白川郷ステークスでは、見事リキアイワカタカを一着に持ってきて有終の美を飾った。この時現場で見守ったファンは、あたかもGIレースと見まごうばかりの大歓声で彼を送っている。
2000年工藤嘉見厩舎を引き継ぎ、ウイングアローで第1回ジャパンカップダートを制す。騎手としてGIを制覇するまでは18年もの歳月を要したが、調教師としては1年目からGIを制した。

[編集] 主な騎乗馬
タマモクロス(1988年天皇賞(春)、宝塚記念、天皇賞(秋))
オグリキャップ(1989年マイルチャンピオンシップ)
バンブービギン(1989年菊花賞)
ハクタイセイ(1990年皐月賞)
イブキマイカグラ(1990年阪神3歳ステークス)
エルウェーウィン(1992年朝日杯3歳ステークス)
ナリタブライアン(1993年朝日杯3歳ステークス、1994年 皐月賞、東京優駿、菊花賞、有馬記念)
マーベラスクラウン(1994年ジャパンカップ)
マチカネフクキタル(1997年菊花賞)
サイレンススズカ(1998年宝塚記念)

[編集] 主な管理馬
ウイングアロー(2000年ジャパンカップダート)
タマモホットプレイ(2004年スワンステークス、2006年シルクロードステークス)
ビッグプラネット(2005年アーリントンカップ、2006年京都金杯)

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

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