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橋口 弘次郎

橋口 弘次郎(はしぐち こうじろう、1945年10月5日 - )は日本の調教師で、日本中央競馬会栗東トレーニングセンターに所属。宮崎県出身。宮崎県立都城泉ヶ丘高等学校卒業。


[編集] 来歴
公営佐賀競馬で瀬戸山重春厩舎所属の騎手としてデビュー。 騎手引退後は、調教助手として栗東・吉永猛厩舎へ移ったのち、松井麻之助厩舎を経て、調教師試験に合格した。

免許取得は1980年3月1日であるが、厩舎を開業したのは丸2年後の1982年3月1日。初出走(同時に初勝利)は同年3月13日の阪神競馬第2競走のハクサンレンポーであった。GI勝ちは多いが、それ以上にGIでの2着が多いことで知られる。管理馬には、ダイタクリーヴァやローズバドのように惜しくもGI制覇に届かなかった馬もいれば、ツルマルボーイやハーツクライのように幾度もの善戦の末にGI制覇を果たした馬もいる。

東京優駿(日本ダービー)に人一倍執着を持っており、「私の一年はダービーに始まり、ダービーで終わる」と語ったこともある。その考え方を表すように、1999年から2006年まで、8年連続でダービーに管理馬を出走させている。1996年にダンスインザダークで、2004年にハーツクライで2着に入っているが、まだダービー制覇の夢は実現できていない。

2006年のドバイミーティングでは、GIIのゴドルフィンマイル(ユートピア)とGIのドバイシーマクラシック(ハーツクライ)に勝利した。日本人調教師として、ゴドルフィンマイルの優勝はドバイダート競走の初制覇、ドバイシーマクラシックの優勝はドバイGIの初制覇であり、またドバイミーティング2勝も初のことであった。

これと決めた調教方針に固執せず、常に試行錯誤を続けながら馬を育てている。実績を挙げた調教師は若手であってもすぐに評価し、その調教方針から範を取って、自らの調教に取り入れることもある。そのため、レース週の追い切りなどにはしばしば変化が見られる。栗東トレーニングセンターに坂路コースが完成した際、いち早く調教メニューに組み入れた調教師の一人でもある。

また、熱烈な読売ジャイアンツファンで知られ、2006年5月4日の阪神甲子園球場で行われた、阪神タイガース対読売ジャイアンツ戦のラジオ日本ジャイアンツナイターにゲスト出演した。


[編集] 管理競走馬
括弧内はGI(斜字は統一GI、太字は海外GI)の勝ち鞍

レッツゴーターキン(1992年天皇賞(秋))
ダンスインザダーク(1996年菊花賞)
ユートピア(2002年全日本2歳優駿、2003年ダービーグランプリ、2004年・2005年マイルチャンピオンシップ南部杯)
ザッツザプレンティ(2003年菊花賞)
ツルマルボーイ(2004年安田記念)
ハーツクライ(2005年有馬記念、2006年ドバイシーマクラシック)
ロジック(2006年NHKマイルカップ)

[編集] 関連項目
小倉競馬場
大崎昭一
高橋亮

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

橋田 満

橋田 満(はしだ みつる 1952年9月15日-)は、JRA栗東トレーニングセンターに所属する調教師である。父はタイテエム(1973年天皇賞・春優勝)を管理した橋田俊三元調教師。1983年に調教師免許を取得し、1985年3月16日に管理馬が初出走、同年5月11日に初勝利を挙げる。


[編集] 管理馬
有力馬主である近藤利一や永井啓弍とのつながりが非常に強く、代表的な管理馬の名前にはたいてい「アドマイヤ」や「スズカ」の冠名がつく。逆にこの2人の馬主以外の馬でのGI勝ちはパッシングショットの1回しかない。以下にGIタイトルを獲得した管理馬とレース名を挙げる。

アドマイヤベガ(1999年東京優駿)
アドマイヤコジーン(1998年朝日杯3歳ステークス、2002年安田記念)
アドマイヤマックス(2005年高松宮記念)
アドマイヤグルーヴ(2003年・2004年エリザベス女王杯)
アドマイヤホープ(2003年全日本2歳優駿)
サイレンススズカ(1998年宝塚記念)
スズカマンボ(2005年天皇賞・春)
パッシングショット(1990年マイルチャンピオンシップ)
その他にも有力馬を多数管理しており、現役馬で代表的なのはアドマイヤメインやアドマイヤフジである。

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

アンドレ・ファーブル

アンドレ・ファーブル(André Fabre、1945年12月9日 - )は、フランスの調教師。20年連続(1987年 - 2006年)でフランスのリーディング・トレーナーに輝き、凱旋門賞を7勝するなど、フランスを代表するホースマンの一人である。

西ドイツ駐在の外交官の息子として生まれ、20代前半まで西ドイツで生活した。大学で法律を学んだがファーブルは競馬界に入り、障害競走の調教師であるアンドレ・アデールの厩舎のスタッフとなった。その後ファーブルは障害競走の騎手となりパリ大障害などを制した。アデールが死ぬとその後を引継ぎ調教師となった。まず障害競走で頭角を表し、続いて平地競走でも成功した。

1987年に初めてフランスのリーディング・トレーナーになると、それから現在までその座を守り続ける。1993年から大馬主ダニエル・ウィルデンシュタインの所有馬を預かり、またオリビエ・ペリエを主戦騎手にした。このトリオで輩出した馬としてパントレセレブルが挙げられる。2001年にはダニエル・ウィルデンシュタインと確執の末に決別し、2003年にはオリビエ・ペリエが離れ、主戦騎手がクリストフ・スミヨンに変わる。2006年の凱旋門賞には3頭を出走させ、その中の1頭レイルリンクが日本から参戦したディープインパクトなどを破り勝利した。


[編集] 主な管理馬
トランポリーノ(凱旋門賞)
スボーティカ(凱旋門賞)
インザウイングス(ブリーダーズカップ・ターフ)
アルカング(ブリーダーズカップ・クラシック)
カーネギー(凱旋門賞)
ペニカンプ(2000ギニー)
パントレセレブル(凱旋門賞、ジョッケクルブ賞)
サガミックス(凱旋門賞)
ハリケーンラン(凱旋門賞、キングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークス、アイリッシュダービー)
シロッコ(ブリーダーズカップ・ターフ)
レイルリンク(凱旋門賞)

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

藤沢 和雄

藤沢 和雄(ふじさわ かずお、1951年9月22日 - )は中央競馬・美浦トレーニングセンター所属の調教師。北海道出身。新聞など(JRA公式ページにおける表記も含む)では常用漢字外の文字を使用するためには制約があるため左記の表記であるが、藤澤 和雄が正しい。

1995年から2004年まで10年連続全国最多勝を獲得。

目次 [非表示]
1 経歴
2 連載
3 著書
4 DVD
5 成績
5.1 記録年表
5.2 成績表
6 管理競走馬
6.1 代表馬
7 外部リンク
8 関連項目



[編集] 経歴
北海道産業大学にて教職課程を修得するが、教師への適性に自ら疑問を抱き、父の友人である小牧場「青藍牧場」の主、田中良熊の下で馬産の手伝いをするようになる。しかしその頃はホースマンになろうという確固たる信念は無く、彼にとって競馬界は自身の将来を定めるまでの短い「腰掛け」に過ぎなかった。

しかし「青藍牧場」で働く中、徐々に田中の影響を受け、藤沢はホースマンへの志を固めていく。そして田中の強い勧めで渡英、名門厩舎のギャビン・プリチャード・ゴードン厩舎の下で厩務員として4年間働き、そこで競馬に対する哲学、馬への接し方等、今日の藤沢厩舎を築くことになる競馬理論を形成していくことになる。彼の信念である「ハッピーピープル・メイク・ハッピーホース」はその最たるものであろう。ちなみに彼を競馬界へと導いた田中は、藤沢が渡英した翌年、急逝している。

帰国した藤沢は、美浦・菊池一雄厩舎の調教助手として日本のホースマンとしての第一歩を踏み出し、二冠馬カツトップエース(皐月賞、東京優駿(日本ダービー))の調教に携わるなど、闘病中の菊池に代わり、番頭として同厩舎を切り盛りする。菊池が病死し(厩舎清算のため、菊池の死後1年間、元調教師の佐藤勝美が名目上の後継調教師となっている)、厩舎が解散した後は野平祐二に誘われ、野平厩舎へ。そこで名馬シンボリルドルフと後の厩舎の主戦騎手岡部幸雄とめぐり合うことになる。

1987年、独立して厩舎を開業。初勝利は、若い管理馬たちのリーダーとなるよう地方競馬からスカウトした老馬ガルダンだった。しばらくしないうちに頭角を現すが、勝利数の割に重賞を勝てず手腕が疑問視された時期もあった。しかし、1992年に、シンコウラブリイで初重賞(ニュージーランドトロフィー4歳ステークス)制覇を達成すると、翌1993年には再びシンコウラブリイで初のGI(マイルチャンピオンシップ)を制覇。それからもタイキブリザード、バブルガムフェロー、レガシーオブゼルダ等を率いて数多の戦果を挙げ、1998年には管理馬タイキシャトルがフランスマイルレースの最高峰「ジャック・ル・マロワ賞」を鞍上岡部幸雄で1.9倍の断然人気で制覇する。(なお7日前には森秀行管理のシーキングザパールが鞍上武豊で「モーリス・ド・ギース賞」を制覇している)

この頃の藤沢の管理手法は、馬に無理はさせず、クラシックは意識せずに活躍は古馬になってからでもいいという考え方であった。 そのためか、日本競馬の最高峰、東京優駿(日本ダービー)にはなぜか縁がなく、バブルガムフェローの故障などもあり、2001年までロンドンボーイ(1989年/24頭中22着)ただ1頭しか出走馬がいなかった。

だが、2002年に久しぶりに管理馬を東京優駿(日本ダービー)出走させることとなり、この際には所属馬を一気に4頭も送り出した。

2004年には厩舎初のクラシック制覇(桜花賞)をダンスインザムードで飾り、ゼンノロブロイで秋古馬GI(天皇賞(秋)、ジャパンカップ、有馬記念)を三連勝する。

ちなみに日本中央競馬会には栗東に藤沢則雄(代表管理馬:ナリタセンチュリー)という同姓の調教師が在籍していることから、競馬新聞やスポーツ新聞では「藤沢和」と表記される。藤沢則雄とは漢字一文字しか違わないが、血縁関係は無い。


[編集] 連載
デイリースポーツサラブnet 藤沢和雄の「伯楽一顧」(Web)

[編集] 著書
競走馬私論―馬はいつ走る気になるか ザ・マサダ競馬BOOKS
競走馬私論―プロの仕事とやる気について 祥伝社黄金文庫

[編集] DVD
スーパートレーナー 藤沢和雄 名馬を語る ポニーキャニオン
スーパートレーナー 藤沢和雄 調教の秘密 ポニーキャニオン

[編集] 成績

[編集] 記録年表
1977年、菊池一雄厩舎にて調教助手となる。
1982年、佐藤勝美厩舎に移籍。
1983年、野平祐二厩舎に移籍、シンボリルドルフによって岡部幸雄との知遇を得る。
1987年、JRA調教師免許取得。
1988年3月開業。初出走は3月12日2回東京5日目1Rケイアイパワーの3着。
 4月24日1回新潟2日目11Rガルダンで延6頭目にして初勝利。

1992年、シンコウラブリイで初重賞(ニュージーランドトロフィー4歳ステークス)制覇
1993年、シンコウラブリイで初GI(マイルチャンピオンシップ)制覇、初の全国最多勝。
1996年、バブルガムフェローで初の天皇賞制覇、距離適性から菊花賞を回避しての制覇で英断が話題になる。
1997年、JRAの年間最多重賞勝利新記録達成(13勝)。
1998年、フランス・ドーヴィル競馬場のジャック・ル・マロワ賞でタイキシャトルが勝利し、前週のシーキングザパールに続く、日本調教馬2頭目の海外GI制覇に導く。タイキシャトルが藤沢管理馬初の年度代表馬となる。
2002年、シンボリクリスエスを筆頭に4頭を東京優駿(日本ダービー)に出走させる。
2004年、ダンスインザムードで桜花賞制覇。クラシック初勝利。ゼンノロブロイが秋の古馬GIを3連勝。
2006年、ダンスインザムードで新設GIヴィクトリアマイルを勝利する。

[編集] 成績表
年 勝利数・連対率 受賞名
1988年  8勝 (.193)  
1989年 15勝 (.227)  
1990年 22勝 (.241)  
1991年 36勝 (.307) '91JRA賞(最高勝率調教師)
1992年 34勝 (.320)  
1993年 44勝 (.319) '93JRA賞(最多勝利調教師・優秀技術調教師)、
1994年 37勝 (.305)  
1995年 53勝 (.333) '95JRA賞(最多勝利調教師・最多賞金獲得調教師・優秀技術調教師)、東京競馬記者クラブ賞
1996年 52勝 (.352) '96JRA賞(最多勝利調教師・最高勝率調教師・最多賞金獲得調教師・優秀技術調教師)
1997年 58勝 (.336) '97JRA賞(最多勝利調教師・最高勝率調教師・最多賞金獲得調教師・優秀技術調教師)、東京競馬記者クラブ賞
1998年 57勝 (.346) '98JRA賞(最多勝利調教師・最多賞金獲得調教師・優秀技術調教師)
1999年 49勝 (.310) '99JRA賞(最多勝利調教師・最高勝率調教師・優秀技術調教師)
2000年 57勝 (.344) '00JRA賞(最多勝利調教師・優秀技術調教師)
2001年 68勝 (.390) '01JRA賞(最高勝率調教師・最多賞金獲得調教師)
2002年 51勝 (.327) '02JRA賞(最多勝利調教師・最多賞金獲得調教師・優秀技術調教師)
2003年 63勝 (.382) '03JRA賞(最多勝利調教師・最高勝率調教師・最多賞金獲得調教師)
2004年 60勝 (.359) '04JRA賞(最多勝利調教師・最高勝率調教師・最多賞金獲得調教師)
2005年 48勝 (.286) '05JRA賞(優秀技術調教師)
2006年 55勝 (.316)

※1991年以来、2001年を除く毎年、優秀調教師賞(関東)受賞。


[編集] 管理競走馬

[編集] 代表馬
シンコウラブリイ
厩舎初の重賞、GI制覇を達成した名牝。
バブルガムフェロー
厩舎初の天皇賞(秋)制覇
タイキシャトル
厩舎初の年度代表馬、海外GI優勝馬
シンコウキング
1997年、高松宮杯優勝。
タイキブリザード
1997年、安田記念優勝。
スティンガー
1998年、阪神3歳牝馬ステークス優勝。
シンボリインディ
1999年、NHKマイルカップ優勝。
ゼンノエルシド
2001年、マイルチャンピオンシップ優勝。
シンボリクリスエス
2002年、2003年と2年連続年度代表馬
ゼンノロブロイ
2004年、天皇賞(秋)、ジャパンカップ、有馬記念の秋の主要GIを完全制覇。
ダンスインザムード
2004年桜花賞優勝。厩舎初のクラシック制覇。2006年新設GIヴィクトリアマイルを制覇し初代王者となる

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

藤本 冨良

藤本 冨良(ふじもととみよし、1907年12月18日 - 1994年10月8日)は、元騎手(東京競馬倶楽部、日本競馬会)、元調教師(国営競馬、日本中央競馬会(JRA))。1980年11月3日、勲五等双光旭日章を受章。2004年、騎手顕彰者として殿堂入り。静岡県磐田郡岩田村出身。1924年、岩田見付補修学校卒業。息子の藤本勝彦は元騎手(JRA)。

地方競馬(旗競馬)の馬主であった父・鹿蔵が騎手になることを熱望し、また自らも騎手を志した。地方競馬の騎手を経て、1924年4月に目黒競馬場・稲葉秀男厩舎へ弟子入りし見習騎手となる。当時は厩務員、調教助手、騎手の仕事に明確な境はなく、厩舎の掃除から馬の世話まで何でもこなしたという。

1930年7月、調教管理者資格を取得し騎手兼調教師となる。1938年、リードアンで中山農林省賞典障害(秋)を勝ち、調教師として重賞初制覇。戦前は「タイヘイ氏」の通称で知られた大川義雄(大川慶次郎の父)の外厩も管理していた。

太平洋戦争末期の1944年10月に兵役につき、1946年9月に調教師として国営競馬に復帰。JRA発足以後の通算勝利数1339勝は尾形藤吉、松山吉三郎に次ぐJRA史上第3位の記録である。また、クラシックレース5つをすべて制した調教師は藤本を含め4人しかいない。

門下生には天神乗りの名騎手・蛯名武五郎がいる。師弟関係に暴力が当たり前だった時代において、弟子には暴力を振るうことは決してなかったという。

目次 [非表示]
1 成績
1.1 騎手成績
1.2 調教師成績
1.2.1 主な勝ち鞍
1.2.2 受賞
2 門下生



[編集] 成績

[編集] 騎手成績
資料がなく不明


[編集] 調教師成績
9054戦1339勝(JRA発足以後)、重賞63勝(JRA発足以後は48勝)


[編集] 主な勝ち鞍
天皇賞(春)(1956年メイヂヒカリ、1961年ヤマニンモアー、1965年アサホコ、1968年ヒカルタカイ)
有馬記念(1956年メイヂヒカリ)
東京優駿(日本ダービー)(1954年ゴールデンウェーブ、1957年ヒカルメイジ、1967年アサデンコウ)
皐月賞(1948年ヒデヒカリ、1956年ヘキラク)
菊花賞(1955年メイジヒカリ)
桜花賞(1955年キヨタケ、1959年ケンホウ)
優駿牝馬(オークス)(1962年オーハヤブサ)
宝塚記念(1968年ヒカルタカイ)
中山大障害(秋)(1962年ライトリア)

[編集] 受賞
最多勝利調教師(全国)(1970年、1971年)
最多勝利調教師(関東)(1954年、1970年、1971年)
優秀調教師賞等16回受賞

[編集] 門下生
蛯名武五郎
清水美波
嶋田潤
町屋幸二
竹内玄
坂内光雄
横山登
松尾兵治
清水利章

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

本田 優

本田 優(ほんだ まさる、1959年1月4日 - )は日本中央競馬会(JRA)の調教師である。栗東所属。160cm、52kg。東京都出身。

目次 [非表示]
1 来歴
2 成績
2.1 GI(級)競走勝利一覧及び当該競走における騎乗馬(年度別)
2.2 年度別成績
2.3 表彰歴



[編集] 来歴
騎手デビューは1980年3月1日の阪神競馬第1競走で、ロビンソンシチーに騎乗し2着。同年3月30日の阪神競馬第3競走でカンザンスピードに騎乗し初勝利。

重賞初勝利は1981年の京都記念(春)(1983年までは年2回施行の競走であった)で初騎乗馬のロビンソンシチーにて挙げる。そして1986年にはゴールドシチーで阪神3歳ステークスに勝利。これがGI初勝利となった。

1990年代に入ると勝ち星はそこそこ挙げ、勝率・連対率共に着実に結果を残すものの大きなタイトルには縁が無く、地味な印象があったが、2000年の阪神3歳牝馬ステークスでテイエムオーシャンに騎乗し、実に14年振りのGI制覇を果たした。翌年も同馬とのコンビで桜花賞、秋華賞を勝利するなど活躍。

その後は勝ち星も徐々に上昇。またマイソールサウンドなどで重賞勝利も重ね、ベテランならではの渋い活躍ぶりを見せている。騎乗フォームは柔らかく、芝レース、特に牝馬騎乗での活躍が目立つ。しかし、その半面強気すぎて人気を裏切ったりすることもあり、テイエムオーシャンの優駿牝馬(オークス)で横山典弘に出し抜けされ、3着に敗れたときは「騎手が下手だったと書いてくれて結構です」と発言し、物議をかもした(一般的に騎手はこのような自己のミスを責める直接的な発言はしない)。

2005年2回函館競馬4日目第6競走においてイアラユーラシアに騎乗し、中央競馬通算700勝を達成した。

2006年には優駿牝馬で上がり馬のカワカミプリンセスに騎乗し、最年長で優勝を果たすと、同年の秋華賞もカワカミプリンセスで制した。エリザベス女王杯でも1位に入線し、ファインモーション以来の無敗の制覇かと思われたが、審議の結果直線でヤマニンシュクルの進路を妨害したとして12着降着(16頭中)となった。ここでも「全部おれの責任」と発言した。

2007年2月15日、調教師試験に合格、JRAの調教師免許を取得した。そのため、2月25日の阪急杯のニシノデュー(6着)を最後に2月28日付で騎手から引退した。


[編集] 成績

[編集] GI(級)競走勝利一覧及び当該競走における騎乗馬(年度別)
1986年
阪神3歳ステークス - ゴールドシチー
2000年
阪神3歳牝馬ステークス - テイエムオーシャン
2001年
桜花賞 - テイエムオーシャン
秋華賞 - テイエムオーシャン
2006年
優駿牝馬(オークス) - カワカミプリンセス
秋華賞 - カワカミプリンセス
以上JRA・GI6勝


[編集] 年度別成績
年 勝利数 連対率 勝率 備考
1980年 22勝 .152 .073
1981年 32勝 .189 .103
1982年 14勝 .187 .061
1983年 22勝 .169 .093
1984年 14勝 .146 .071 通算100勝達成
1985年 20勝 .227 .123
1986年 21勝 .211 .091
1987年 18勝 .165 .059
1988年 35勝 .248 .152
1989年 21勝 .191 .091
1990年 27勝 .235 .113
1991年 29勝 .189 .101
1992年 19勝 .179 .068
1993年 23勝 .204 .117
1994年 30勝 .229 .135
1995年 25勝 .215 .100
1996年 28勝 .240 .097
1997年 30勝 .172 .101
1998年 27勝 .193 .070
1999年 34勝 .186 .106
2000年 30勝 .183 .087
2001年 35勝 .188 .110
2002年 20勝 .147 .072
2003年 40勝 .203 .111
2004年 56勝 .201 .106 関西リーディング9位
2005年 48勝 .188 .086
2006年 34勝 .167 .089
2007年 3勝 .171 .043

以上JRA755勝、重賞27勝。うち障害競走は1980年4戦0勝(2007年2月終了時点)


[編集] 表彰歴
関西放送記者クラブ賞(最多勝利新人騎手) - 1980年
JRAフェアプレー賞 - 1988年、1996年、1999年、2001年、2003年

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

増沢 末夫

増沢 末夫(ますざわ すえお、1937年10月20日 - )はJRA(日本中央競馬会)所属の調教師、元騎手。北海道生まれ。

因みに、増沢末夫では無く増澤末夫が戸籍上の表記である[1]。

目次 [非表示]
1 略歴
2 騎手時代の主な騎乗馬
3 調教師時代の主な管理馬
4 歌
5 著書
6 脚注
7 関連項目



[編集] 略歴
1957年に騎手デビュー。1992年に引退するまでの通算成績は12780戦2016勝と素晴らしい成績であった。その中身は東京優駿(日本ダービー)2勝[2]や中央競馬所属の騎手としては初となる通算2000勝を達成するなど「鉄人」の愛称で親しまれた。

特にハイセイコーとのコンビでは競馬ブームを巻き起こし『さらばハイセイコー』という曲を自ら歌いレコードを出すなど一世風靡した[3]。

逃げ戦法を得意とし、しばしば大逃げを打ち穴をあけたことから「逃げの増沢」の愛称が定着。まだ実力のない逃げ馬でも、増沢が乗ると人気になる現象もみられた。小回りコースが多く逃げが決まりやすいローカル開催での活躍も目立ち、特に福島競馬場でのレースでは「増沢の庭」と呼ばれるほどの圧倒的な強さを誇った。

引退後は調教師に転身。1993年に厩舎を開業した。開業初年度にいきなり重賞を制覇するなど、流石と思わせるの一面も見られたが、調教師としてはまだ中央競馬のGIを勝つまでには至っていない。しかしながら、交流GIは2005年にかしわ記念をストロングブラッドで制している。所属騎手に増沢由貴子(旧姓:牧原)がおり、息子の真樹(調教助手)の夫人である。


[編集] 騎手時代の主な騎乗馬
アサデンコウ(東京優駿)
イシノヒカル(菊花賞、有馬記念)
ハイセイコー(皐月賞、宝塚記念)
ハワイアンイメージ(皐月賞)
ダイナガリバー(東京優駿、有馬記念)
ユキノサンライズ(中山記念、中山牝馬ステークス、フラワーカップ)
又、優勝こそしていないもののオグリキャップ(天皇賞(秋)、ジャパンカップ)にも騎乗している。


[編集] 調教師時代の主な管理馬
ダイワテキサス(オールカマー、中山記念)
ストロングブラッド(かしわ記念)
ダイワパッション(フィリーズレビュー)
ユキノサンロイヤル(日経賞)
ダイワカーソン(京王杯3歳ステークス)
レイズスズラン(さきたま杯、彩の国浦和記念)

[編集] 歌
さらばハイセイコー(1975年1月1日、45万枚)2000年8月23日『さらばハイセイコー 完全追悼盤』も発売。
ハイセイコーよ元気かい(1975年4月1日、14万枚)
いななけカツラノハイセイコ(1979年、7万枚)

[編集] 著書
鉄人ジョッキーと呼ばれて

[編集] 脚注
^ 戸籍上では旧字体の澤を使用。詳細は戸籍上の表記を使用する地方競馬全国協会のデータ情報を参照の事。
^ 1勝目はアサデンコウで勝ったもので、以外にもこれが初重賞制覇だった。2勝目はダイナガリバーで勝ったもので、史上最年長のダービー勝利騎手、同時に史上最年長のクラシック勝利騎手となった。
^ 2000年にNHKの『思い出のメロディー』に出演して歌ったが、ハイセイコーの死の直後だったため、名実ともに思い出のメロディーになってしまった。

[編集] 関連項目
増沢由貴子(義理の娘)
武邦彦(同期生)

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

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