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小島 太

小島 太(こじま ふとし、1947年4月11日 - )は、北海道出身で、日本中央競馬会(JRA)の元騎手、現在は調教師である。2005年に騎手デビューした小島太一は四男(他の子息は調教助手の小島良太など)。騎手としての成績は平地8460戦1018勝・障害16戦6勝である。

目次 [非表示]
1 来歴
1.1 騎手時代の主な勝ち鞍(グレード制導入前のGI級も含む)
2 調教師として
2.1 調教師としての主な勝鞍
3 著書
4 ビデオ



[編集] 来歴
中学生の頃、修学旅行に来ていた高校生に自分が騎手になれるか尋ねた所、『君は大きくなるから無理』と言われてしまう。その発言にショックを受けた太少年は大きくならない為に普段は押入れの中、寝る時は箪笥の引き出しの中と言う生活をした。因みに、この発言をした高校生は後に三冠馬ミスターシービーを管理するトレーナーとして名を馳せる松山康久であった。
1963年、JRAの騎手になるために馬事公苑に入った際に、後に日本を代表する馬主として名を馳せる全演植(後述参照)に偶然見初められた、という逸話がある。全は、まったく面識がなかった太と彼の実父の前で『良い顔だ、勝負師の顔をしている。必ず大物になる』というふうに太を褒めたという。この時の出会いがきっかけで、後に全は太を全面的にバックアップするようになったという。
1966年に馬事公苑14期生として騎手デビュー。同期は安田富男、田島良保、平井雄二などがいる。
1978年5月28日サクラショウリで東京優駿(日本ダービー)に優勝する。
現役時代の名人芸「6頭立てでもインに詰まる」(サクラヤマトオーのディセンバーステークス)「人気を背負った馬で極端な追い込み策をとり、なおかつハナ差で負ける」(サンエイソロンの三冠戦、サクラチトセオーの安田記念)「TVに写らない外ラチから追い込んでくる」(サクラホクトオーの菊花賞)その騎乗は、数多くの競馬ファンを驚愕させた。その為、「フトシは嫌いだ」「ヘタクソ」「猫とフトシは呼んでも来ない」などと罵る競馬ファンも多かったが、その人間的な魅力やここ一番での大胆な騎乗でファンも多かった。
境勝太郎調教師をして「太のバカが良く乗ってくれた」と言わしめたレースが2つある。1986年の天皇賞(秋)では絶対的に不利と言われる府中の大外枠からサクラユタカオーを無理無く先行させて勝った。また1988年の東京優駿(日本ダービー)ではサクラチヨノオーを「一世一代の差し返し」で栄冠に導いた。なお、この際スタンドで見ていた境師が2着を覚悟していた所、「勝ってる」と言われて思わず腰を抜かしたと言うエピソードは有名である。このダービーの騎乗は、後輩の横山典弘をして「太さんでなければ絶対に勝つことは出来なかった」と言わしめている。
現役時代、小島は競馬サークル内では「不良」と言われ、義父である境勝太郎調教師を散々嘆かせた。騎手同士では故・中島啓之(あんちゃん)、田島良保(現調教師)や田原成貴ととりわけ親しく、後輩では横山典弘、四位洋文、武幸四郎らとも親しい。また王貞治や千代の富士と言ったスポーツ選手や北島三郎などの芸能人とも交流があった。なお岡部幸雄とは度々不仲、或いはライバル関係と言われることもあるが、実際にはそのような事実は無かったと後に自著で語っている。小島が調教師に転身して最初のGI勝ちをプレゼントしたのも岡部であった。
さくらコマースの代表である全演植オーナーと親しく、同社の所有馬を中心に騎乗(契約を交わしていたとの記述のある本もある ex.『優駿たちの蹄跡 4巻』)。境勝太郎調教師と共に「サクラ軍団」の代名詞的存在となり、日本で一番ピンクの似合う(さくらコマースの勝負服の色がピンクであることから)騎手と言われた。しかし皐月賞、菊花賞を制したサクラスターオーにはデビュー2戦目までしか騎乗していない。これは当時小島と全との間に、小島が別の馬主とも専属契約を結んでしまったことによる発生した確執があったためと言われている。この冷戦状況を快方へ導く馬となったのがサクラチヨノオーだった。2人の間は実の親子以上の関係とまで言われ、全が亡くなった際も、親族以外で唯一参列を許された。全の死去の8日後の1993年12月19日に行なわれたGI・スプリンターズステークスでは、サクラバクシンオーに騎乗して優勝している。また、1987年12月に実父が亡くなった時にも、6日後のGI・朝日杯3歳ステークスをサクラチヨノオーで制している。
武豊が2002年に東京優駿3勝目を挙げるまで、保田隆芳・大崎昭一・小島貞博と並んで東京優駿最多勝利騎手であった。
スプリンターズステークスはGIになる前も含めると5勝している。

[編集] 騎手時代の主な勝ち鞍(グレード制導入前のGI級も含む)
サクライワイ(1974年スプリンターズステークス、1975年安田記念、スプリンターズステークス)
サクラショウリ(1978年東京優駿、1979年宝塚記念)
ビンゴガルー(1979年皐月賞)
サクラゴッド(1980年スプリンターズステークス)
サクラユタカオー(1986年天皇賞(秋))
サクラチヨノオー(1987年朝日杯3歳ステークス(現朝日杯フューチュリティステークス)、1988年東京優駿)
サクラホクトオー(1988年朝日杯3歳ステークス)
サクラバクシンオー(1993年、1994年スプリンターズステークス)
サクラチトセオー(1995年天皇賞(秋))
サクラキャンドル(1995年エリザベス女王杯)

[編集] 調教師として
1000勝を挙げると1次試験免除となる(現在この制度は無い)のを機に、調教師試験に受験し合格。
1996年に騎手を引退し調教師になる。当時の有力馬サクラローレルの鞍上は横山典弘に託す。
1997年に境勝太郎厩舎を引き継いで厩舎を開業。サクラローレルも自厩舎の馬となる。
2000年5月7日イーグルカフェでNHKマイルカップを制し、調教師として初めてGIのタイトルをとる。
競走馬の海外遠征には積極的で、サクラローレルやイーグルカフェ、マンハッタンカフェで上記の遠征を実現させている。

恩師である境勝太郎師の勇退に伴い、厩舎を引き継ぐ形で厩舎を開業したが、そのすぐ後に、同師の娘であった前夫人と離婚。この際に意見した横山典弘ともその後一時疎遠になった。

サクラローレルの引退式の際、調教師台に自ら上った。しかし素質をもちながら故障を繰り返したサクラローレルをGI馬に仕上げたのは境の手腕によるところが大きく、さらにサクラローレルがGIを2勝した際の管理調教師も境であったため、この行為は物議を醸した。特に大川慶次郎は著書『大川慶次郎が選ぶ「個性派」名馬18頭』(ザマサダ)の中で、「小島太という人間に疑いを持ちました」と痛烈に批判した。





[編集] 調教師としての主な勝鞍
イーグルカフェ(2000年NHKマイルカップ、2002年ジャパンカップダート)
マンハッタンカフェ(2001年菊花賞、有馬記念、2002年天皇賞(春))
サクラプレジデント(2003年札幌記念、2004年中山記念)
プレシャスカフェ(2004年CBC賞)

[編集] 著書
「競馬八方破れ 言いたい放題」(ベストブック)
「馬を走らせる」(光文社)

[編集] ビデオ
「小島太 -我が騎手人生-」(ポニーキャニオン)
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2007年02月28日 トラックバック(-) コメント(-)

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