スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

--年--月--日 トラックバック(-) コメント(-)

酒井 忠正

酒井 忠正(さかい ただまさ、1893年6月10日 - 1971年2月16日)は伯爵、貴族院議員、貴族院副議長、農林大臣、中央農業会長、日本中央競馬会理事長、横綱審議委員会委員長、相撲博物館初代館長。1965年、勲一等瑞宝章を受章。

旧姫路藩主・酒井忠邦の子。1918年に京都帝国大学法学部を卒業。1923年9月に貴族院議員となり、1945年12月まで務める。阿部信行内閣にて農林大臣を務める。日本中央競馬会第3代理事長として、アジア競馬会議の開催を提唱し、1960年に実際に開催するなど日本競馬の国際的な地位向上に努めた。頼まれると断らない人柄で縁の薄い角界・プロレス界も賓客の礼をもってこの貴人を迎えている。

スポンサーサイト

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

椋木 宏

椋木 宏(むくのき ひろし、1961年1月26日 - )は、競馬専門紙「競馬エイト」所属のトラックマン、競馬評論家。島根県益田市出身。


[編集] 来歴
益田競馬場の近くに住んでいたため、早くから競馬に興味を持つ。東京スポーツに掲載されていた募集記事を見て、同紙の系列の競馬専門紙「レースポ」に入社。美浦トレーニングセンターの北馬場担当のトラックマンとなる。しかし、1985年1月にレースポが廃刊となってしまう。当時即戦力の人材を求めていた「競馬エイト」のトラックマンらに誘われ、同年2月に同紙に移籍。エイトでは南馬場担当となり、現在に至る。

明るいキャラクターであることもあって競馬番組にもたびたび出演しており、「チャレンジ・ザ・競馬」や「スーパー競馬」等に出演。2000年12月からはBSフジの「競馬大王」にレギュラー解説者として出演。また、競馬バラエティー番組の「うまッチ!」にもレギュラー出演した。

その他、競馬場内の予想イベントなどにも出演している。


[編集] 出演番組
BSフジ競馬中継(BSフジ独自制作時のみ)

[編集] 過去の出演番組
うまッチ!
酔いどれない競馬
競馬大王
スーパー競馬
チャレンジ・ザ・競馬

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

西浦勝一

西浦勝一(にしうら かついち、1951年2月7日-)は日本中央競馬会(JRA)の元・騎手で調教師。栗東トレーニングセンター所属。高知県出身(生まれは長崎県)。


[編集] 騎手としての経歴
1969年、3月1日に土門健司厩舎所属騎手としてデビュー。同4月13日にミシマホープで初勝利。
1980年、阪神競馬場の改修で中京競馬場で代替開催された宝塚記念をテルテンリュウで勝利。
1981年、アグネステスコでエリザベス女王杯に勝利。
1984年、カツラギエースで宝塚記念勝利、さらに同年のジャパンカップでは10番人気ながら外国馬のみならずミスターシービー、シンボリルドルフの両三冠馬をも抑え、日本調教馬として初の同レース勝利。「世界のニシウラ」と賞賛される。
1988年、ヤエノムテキで皐月賞に勝利。
1992年、フリーになる。
1996年、調教師試験に合格、2月29日付で騎手を引退。JRA通算635勝(うち障害2勝)、重賞26勝。

[編集] 調教師としての成績 
1997年、3月1日に厩舎開業。同日、サンセットムーンで初勝利。さらにこの年の京都大障害(春)をネーハイジャパンで重賞初勝利。
2000年、テイエムオーシャンで阪神3歳牝馬ステークスを勝ち(厩舎のG?初勝利でもある)、同馬はこの年の最優秀3歳牝馬として表彰。
2001年、テイエムオーシャンで桜花賞と秋華賞を制覇。同馬はこの年の最優秀3歳牝馬(この年から満年齢で年齢計算の為、賞の名前だけは前年と同じ)として表彰。
2006年、カワカミプリンセスで優駿牝馬と秋華賞に勝利。同馬はこの年の最優秀3歳牝馬として表彰される。
所属馬には「橙色に水色の縦縞」で統一されたデザインのメンコを出走時に着用させている事が多い。(前述のテイエムオーシャン・カワカミプリンセスの他に、マイソールサウンド・アグネスラズベリなど)


[編集] 関連項目 
本田優

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

二分 久男

二分 久男(にぶん ひさお、1930年12月29日 - )は日本中央競馬会 (JRA) 栗東トレーニングセンターに所属していた調教師である。宮崎県都城市出身。同じく調教師の布施正(故人)とは義理の兄弟の間柄に当たる。

目次 [非表示]
1 経歴
1.1 受賞歴
1.2 主な管理馬
1.3 マイナー血統馬での快進撃
2 引退後
3 関連項目



[編集] 経歴
1965年に調教師免許を取得し、厩舎を開業。
1978年、アグネスホープで東京優駿(日本ダービー)2着。
1980年、ノースガストで菊花賞を制覇。クラシック初優勝。
1981年、テキサスワイポンで中山大障害(秋)を制覇。
1997年1月11日、マチカネコンチキチでJRA通算600勝を達成。マチカネフクキタルで2度目の菊花賞制覇。年間32勝を挙げ、全国リーディング8位と活躍。
2001年2月28日をもって定年を迎え、調教師を引退。JRA通算7783戦で675勝(うち障害181戦23勝)を挙げた。なお、最後まで残っていた所属馬は、直後に新規開業した角居勝彦厩舎へ転厩となった。

[編集] 受賞歴
優秀調教師賞、優秀厩舎スタッフ賞(関西)(1997年)

[編集] 主な管理馬
ノースガスト (菊花賞、神戸新聞杯) 父アラナス
テキサスワイポン (中山大障害(秋)、京都大障害(春)、阪神障害ステークス(秋)、中京障害ステークス)
シンウインド (スワンステークス、京王杯スプリングカップ) 父ウエスタンウインド
マチカネフクキタル (菊花賞、神戸新聞杯、京都新聞杯) 父クリスタルグリッターズ
テイエムオオアラシ (カブトヤマ記念、福島記念、小倉記念) 父セクレファスター
シンカイウン (朝日チャレンジカップ、中日新聞杯) 父シンチェスト
ツルマルツヨシ (朝日チャレンジカップ、京都大賞典) 父シンボリルドルフ

[編集] マイナー血統馬での快進撃
1997年には、マチカネフクキタル・テイエムオオアラシ・シンカイウンの3頭で重賞を6勝するなど、秋競馬の重賞戦線を大いに賑わせ、普段馴染みの薄い血統の馬が立て続けに好走したことも話題となった。

事実、サンデーサイレンス、ブライアンズタイム、トニービンをはじめとした上位リーディングサイアーの産駒は、ほぼ皆無と言っていいほど二分厩舎には入厩しておらず、それでいて、半年のうちにこれだけの成績を残したのは驚異的なことである。血統だけでなく、実際に馬を見て選ぶことも重視した二分の相馬眼の確かさも、その一因を担っていたと言える。


[編集] 引退後
調教師引退後は、故郷・宮崎で競走馬の育成に携わっており、競走馬の育成風景を取り上げたNHKの朝のニュース内のコーナーで、インタビューを受けたこともある。


[編集] 関連項目
外枦保重秋 (元騎手、のちに二分厩舎の調教助手に)
西園正都 (元所属騎手、現在は調教師)
酒井学 (元所属騎手、現在は西園厩舎所属)

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

二本柳 俊夫

二本柳 俊夫(にほんやなぎとしお、1920年8月8日 - 2006年5月17日 )は、元騎手(日本レース・倶楽部、日本競馬会、国営競馬、日本中央競馬会(JRA))、元調教師(日本中央競馬会)。神奈川県横浜市出身。1932年、立野尋常高等小学校尋常科を卒業。1992年4月、黄綬褒章を受章。2004年、調教師顕彰者。父は二本柳省三(騎手兼調教師)、兄は二本柳勇(騎手)、子の二本柳俊一は現在JRA調教師で、孫の二本柳壮も現在JRA騎手である。

目次 [非表示]
1 経歴
1.1 騎手時代
1.2 調教師転向
1.3 シリウスシンボリ移籍事件
2 成績
2.1 騎手成績
2.1.1 主な勝ち鞍
2.2 調教師成績
2.2.1 主な勝ち鞍
2.2.2 受賞
3 門下生



[編集] 経歴

[編集] 騎手時代
1932年、横浜競馬場にある父・省三の厩舎で見習騎手となる。1933年、兄・勇の厩舎へ移籍。1935年、騎手免許取得。

1940年に兵役につくが体調を崩し翌1941年に兵役を免除された。太平洋戦争の戦況が悪化し競馬開催が一時停止に追い込まれると、稲葉幸夫のもとで日本競馬会の運送業に従事。戦後は進駐軍関係の仕事に従事するが、1946年に競馬界に復帰した。

1947年、ヤマトナデシコで中山記念に勝ち重賞初制覇。1955年にはオートキツで東京優駿(日本ダービー)を優勝。


[編集] 調教師転向
1957年に調教師免許を取得し、同年9月に厩舎開業。翌1958年、開業2年目にしてオンワードゼアで天皇賞(春)、有馬記念を含む重賞4勝を挙げる。

1980年代に調教師として全盛期を迎えた。ホウヨウボーイ、アンバーシャダイ、シリウスシンボリといった名馬を相次いで手がけ、また勝利度数においても1980年から1982年にかけて3年連続で関東リーディングトレーナー、1982年には全国リーディングトレーナーの座を獲得した。


[編集] シリウスシンボリ移籍事件
1985年春、シリウスシンボリの騎手起用を巡って馬主の和田共弘と対立。発端は二本柳厩舎主戦騎手であった加藤和宏騎乗のデビュー2戦目が斜行による失格、3戦目を4コーナーで不利を受けての2着という結果に終わったため、これに不満を覚えた和田が岡部幸雄への乗り替わりを主張したことにある。

元来、二本柳は管理馬の騎手には門下生を起用する調教師であった。当時の和田は皇帝シンボリルドルフを所有し飛ぶ鳥を落とす勢いのオーナーブリーダーであったが、相手が誰であろうと主義を曲げることはなかった。二本柳はあくまでも弟子を庇い、「不満があるならよその厩舎へ行ってくれ」と主張、これを受けて和田は畠山重則厩舎へシリウスシンボリを転厩させてしまう。この行動は二本柳厩舎スタッフばかりでなく厩務員組合全体の反発を呼び、遂には調教師会が仲介に乗り出す事態にまで発展した。結局シリウスシンボリは二本柳厩舎に戻され、その年の東京優駿(日本ダービー)を制覇。加藤は師匠の思いに見事応えた。

なお、この勝利で騎手としても調教師としても日本ダービー制覇を達成した。これは二本柳を含め3人しか達成していない記録である。

1997年2月28日、引退。これはJRAが調教師70歳定年制度を導入したためである。 2004年、調教師顕彰者として殿堂入り。

2006年5月17日、肺炎のため死去した。


[編集] 成績

[編集] 騎手成績
通算成績388戦105勝(日本中央競馬会発足以降)


[編集] 主な勝ち鞍
東京優駿(日本ダービー)(1955年、オートキツ)

[編集] 調教師成績
通算成績8042戦1043勝、重賞48勝


[編集] 主な勝ち鞍
東京優駿(日本ダービー)(1985年シリウスシンボリ)
天皇賞(春)(1958年オンワードゼア、1983年アンバーシャダイ)
天皇賞(秋)(1981年ホウヨウボーイ)
有馬記念(1958年オンワードゼア、1981年アンバーシャダイ)
菊花賞(1961年アズマテンラン、1962年ヒロキミ)
優駿牝馬(1982年シャダイアイバー)
中山大障害(春)(1962年フェニックス)
中山大障害(秋)(1985年オンワードボルガ)

[編集] 受賞
全国リーディングトレーナー(1982年)
関東リーディングトレーナー(1980年~1982年)
優秀調教師賞(関東)(1966年)
調教技術賞(関東)(1964年~1966年、1979年~1982年)
重賞獲得調教師賞(関東)(1983年)
スポーツ功労者 文部科学大臣顕彰(1994年度)

[編集] 門下生
加藤和宏
杉浦宏昭

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

野平 祐二

野平 祐二(のひら ゆうじ、1928年3月20日 - 2001年8月6日)は、元騎手(日本競馬会、国営競馬、日本中央競馬会(JRA))、元調教師(JRA)。千葉県船橋市古作出身。騎手としても調教師としても成功し「ミスター競馬」と呼ばれた。父の省三は元騎手(日本競馬会)、元調教師(国営競馬、日本中央競馬会)。孫の二本柳壮は騎手(JRA)。2004年、騎手顕彰者に選出。

目次 [非表示]
1 経歴
1.1 少年時代
1.2 騎手時代
1.2.1 オーストラリアへ遠征
1.2.2 海外競馬に対する関心が高まる
1.3 調教師時代
1.3.1 シンボリルドルフを管理
1.3.2 ルドルフの体調を巡って和田共弘と対立、絶縁
2 エピソード
3 通算成績
4 代表馬
4.1 騎手時代
4.2 調教師時代
5 門下生



[編集] 経歴

[編集] 少年時代
父の省三が騎手を引退した後、下総御料牧場で働いていた時に生まれる。幼少の頃から馬が身近にいる環境で育ち、小学校時代には馬に鞍をつけて乗るようになっていた。

尋常小学校を卒業後、関東中学に進学するが、騎手を志して退学。1942年、騎手見習いとして関東の名門尾形藤吉厩舎に入門した。


[編集] 騎手時代
1944年春に騎手免許を取得し、同年12月3日、東京修練場(現在の馬事公苑)において行われた能力検定競走で初騎乗。同月5日に初勝利を挙げる。

1945年4月に宇都宮市へ疎開し、日本競馬会の仕事に従事。毎日10頭近くの馬を1人で調教し、世話をするという過酷な労働と栄養失調から肉体と精神に変調をきたし、「どうせ死ぬならお国のために戦って死にたい」と決意。海軍飛行予科練習生乙科に願書を出願したが、受験日に指定された8月15日に太平洋戦争は終結した。

1946年に公認競馬が再開されるとこれに参加。1949年に尾形厩舎から野平省三厩舎へ移籍。1952年にスプリングステークスで重賞初勝利(優勝馬アサトモ)。1957年に公認競馬・中央競馬を通じて初となる年間100勝をマーク(103勝)。翌1958年 には中央競馬における当時の年間最多勝記録となる121勝をマークした(この記録は以後19年間破られることがなかった)。


[編集] オーストラリアへ遠征
1959年、オーストラリアで行われた国際競走に中央競馬のリーディングジョッキーと招待されて遠征。12月12日、カンタベリー競馬場で行われたレースで1着。海外のレースにおける日本人騎手初勝利を飾った。気性面に問題のあったアカタラワという競走馬を難なく御した野平の騎乗は現地の競馬関係者に賞賛された。野平自身、「海外の騎手とも互角にやれる」という自信を得た。


[編集] 海外競馬に対する関心が高まる
1967年 スピードシンボリで天皇賞(春)を制覇。同年、同馬に騎乗してワシントンD.C.インターナショナルに遠征(9頭中5着)。アメリカの一流競走馬の能力を目の当たりにした野平はオーストラリア遠征で得た自信を完全に打ち砕かれ、スピードシンボリの馬主・和田共弘と「外国の馬の強さの秘密を知るには積極的に現地へ足を運ぶ必要がある」という認識を共有することとなった。

1969年、再びスピードシンボリで海外遠征を敢行。キングジョージクイーンエリザベステークス(9頭中5着)や、凱旋門賞(24頭中10着)に騎乗。海外競馬のレベルの高さ、海外遠征の難しさを改めて痛感させられる結果となった。

1972年、和田共弘・北野豊吉・藤田正明ら馬主9名の協力を得て「日本ホースメンクラブ」を結成。目標は、馬主が出資した資金を元手に購入した競走馬をヨーロッパの厩舎で管理し、本場の大レース優勝を目指すというものであった。野平はフランスに長期滞在して競走馬の調達を担当。同時に騎手として現地のレースに騎乗した。 この遠征において野平は同クラブが所有するビバドンナに騎乗してドーヴィル競馬場で行われたレースを優勝(1972年8月27日)し、日本人騎手として欧州のレース初勝利を飾った。また、海外遠征を行ったメジロムサシに騎乗して凱旋門賞(19頭中18着)、ワシントンD.C.インターナショナル(9頭中7着)に出走した。

1975年、父省三の死に伴い、厩舎を引き継ぐために騎手引退を決意。同年2月26日、最後のレースとなった目黒記念に優勝(優勝馬カーネルシンボリ)し、騎手として有終の美を飾った。


[編集] 調教師時代
調教師免許取得日は1975年3月1日。同年8月に厩舎を開業し8月2日に初出走。同年12月7日、ホッカイノーブルで初勝利を挙げた。1976年、同じくホッカイノーブルでステイヤーズステークスに勝利して重賞初制覇。


[編集] シンボリルドルフを管理
1983年、シンボリルドルフを管理することになる。調教にまたがった野平はデビュー前からその非凡な素質を見抜いていた。1984年、岡部幸雄騎手や藤沢和雄調教助手らとともに綿密な調教プランを立て、シンボリルドルフを史上4頭目の三冠馬に育てる。それ以外に1984年から1985年にかけて有馬記念2勝、天皇賞(春)、ジャパンカップを制し7冠という偉業を達成した。野平は「競馬には絶対はないがシンボリルドルフには絶対がある」と天皇賞・秋の出走時に発言してぐらいに同馬には絶対的な信頼をしていた。


[編集] ルドルフの体調を巡って和田共弘と対立、絶縁
1985年、宝塚記念を前にシンボリルドルフの体調を巡り、それまでの経験から体調不良と判断した野平と「問題ない」とするシンボリ牧場場長の桐澤の見解が対立。このときは和田が折れてルドルフは宝塚記念に出走しないこととなった(実際には出走取消扱いとなっている)。

翌1986年、海外遠征を控えたルドルフの体調を巡って再び野平と桐澤が対立(宝塚記念のときと同じく野平が体調不良だと主張)。さらに遠征の日程を巡って野平と和田の意見が対立(和田はまずアメリカに遠征し、次いでヨーロッパへの遠征を計画。一方野平はアメリカを経由せずに直接ヨーロッパへ遠征するべきだと主張)していたことから和田と絶縁状態に陥る。関係の断絶は和田が死去(1994年)するまでついに解消されることはなかった。

2000年2月29日、定年により調教師を引退。翌2001年8月6日に肺炎のため死去。

2004年、JRA発足50周年を期に顕彰され、殿堂入りを果たした。


[編集] エピソード
日本にモンキー乗りを普及させたのは保田隆芳であるが、野平は保田に先んじてモンキー乗りを独自に研究し、レースで実践していた。
騎手時代には「プロの騎手はただ勝てばいいのではない。プロらしい技術を見せて(野平は「演技する」と表現した)ファンを魅了しなければならない」という美学をもっていた。また、幼少の頃から父・省三に「競馬関係者はジェントルマンでなくてはならない。ジェントルマンはフェアでなければならない」と繰り返し教えられてきた影響からフェアプレーに徹した。それは「他人を妨害するのはもちろん、妨害される(程度の技量しか持ち合わせていない)のもプロ失格である」というほどに徹底したものであった。1954年には1年を通じて制裁がなかったことにより、模範騎手賞を受賞した。
海外競馬への憧れや海外生活の影響から、欧米を範とした言動をとることが多かった。例として、前述のようにフェアプレイや「演技」の概念を強調したことが挙げられる。また、シンボリルドルフがダービーに出走した際には、ヨーロッパのダービーにおける調教師の正装である焦げ茶色のソフト帽を着用して観戦した。こうした振る舞いはマスコミに「ダンディー野平」と賞賛される一方、競馬関係者などからは「外国かぶれ」「キザな野郎だ」と陰口を叩かれることもあった。

[編集] 通算成績
騎手成績7280戦1339勝(日本中央競馬会発足以降1188勝)。
調教師成績3949戦402勝

[編集] 代表馬

[編集] 騎手時代
トサオー(1959年天皇賞(春))
カネケヤキ(1964年桜花賞、優駿牝馬(オークス))
スピードシンボリ(1967年天皇賞(春)、1969年・1970年有馬記念)
ヒカルタカイ(1968年天皇賞(春))

[編集] 調教師時代
シンボリルドルフ(1984年皐月賞、東京優駿(日本ダービー)、菊花賞、有馬記念、1985年天皇賞(春)、ジャパンカップ、有馬記念)

[編集] 門下生
藤沢和雄

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

函館 大経

函館 大経(はこだてだいけい(ひろつねと読むこともある)、1847年~1907年)は、日本のホースマンの始祖の一人とされる人物。元大日本帝国陸軍軍人、北海道開拓使職員、北海道庁職員。

日本、とくに北海道における馬術・競馬・馬の生産の発展に大きく貢献し、現代では『伝説の馬術師』ともして言い伝えられる。蛯子末次郎、深瀬鴻堂とともに「函館三士」の一人に数えられる。北海道様似村大字幌満村出身。出生時の氏名は斎藤義三郎で、小野義三郎、次いで函館大経と改名した。

目次 [非表示]
1 来歴
2 名前の由来
3 日本のホースマンの始祖
3.1 門下生



[編集] 来歴
1847年、斎藤源吉、ハル夫婦の四男として生まれる。やがて海産商・小野市右衛門の養子となり上京。昌平坂学問所において栗本鋤雲の下で漢学を学んだ。

明治政府誕生後はその軍隊(陸軍)に属し、1868年よりフランスの軍人ペルセルの下で馬術を習得。陸軍省兵学寮に所属していた1870年、東京招魂社例大祭において行われた天覧競馬において優れた乗馬技術を見せ、横浜レース・クラブ所属の外国人騎手とのマッチレースを制した。この活躍が明治天皇(当時北海道開拓使次官であった黒田清隆との説もある)の目にとまったことがきっかけで、のちに開拓使、次いで北海道庁に採用され、湯地定基の下で馬の生産技術向上、馬術の普及にあたるようになった。また、この出来事を境に名を「函館大経」と改めたという説がある。なお、大経と改名後も数回、明治天皇の前で馬術を披露している。

1881年、時任為基の提案により現在の函館市海岸町で行われた競馬に協力したのをきっかけに定期的な競馬開催を目指すようになり、1883年9月に北海共同競馬会社を設立。海岸町に競馬場を開設し、翌10月に競馬を開催した。同社は1890年に函館共同競馬会と名を変え、1896年、渡島国亀田郡湯ノ川村大字湯ノ川字柏野(現在の函館市駒場町)に現在の函館競馬場を建設した。

北海道庁を退官後は獣医、蹄鉄業を営み、後に「湯の川競馬会社」に勤務し、人々に乗馬技術を伝授した。その卓抜した騎乗技術は現在にも様々な逸話として言い伝えられており、中には「糸乗り伝説」といい、絹糸一本で馬を御したという話もある。

晩年、馬に蹴られた右足が思うように動かなくなった(一説では、牛に右足を蹴られて切断したとも伝えられる)が、その後も技術は健在で、難なく馬を乗りこなしたという。

1907年に逝去。函館市内に墓所はある。


[編集] 名前の由来
函館大経を名乗った経緯については諸説ある。

明治天皇からの下賜品を辞退した際、代わりに函館姓を与えられた。
北海道を視察中の明治天皇の目にとまり、函館姓を与えられた。
前出天覧競馬において明治天皇(もしくは黒田清隆)の目にとまり、大経(当時は小野義三郎)について尋ねた。側近が「あれは函館の小野(斎藤と言ったという説もあり)と申します」と答えたところ、「函館か。大慶至極である。」と言ったエピソードを誉れに思った義三郎が自ら改名した。

[編集] 日本のホースマンの始祖
大経の門下生からは、日本の近代競馬を支えたホースマンが数多く育った。現在もその流れを汲むホースマンは中央競馬、地方競馬、生産者などに数多く存在しており、日本国内でも最古かつ最大級のホースマンの系譜の一つである。たとえば武豊は武彦七の、大久保正陽は大久保福松の子孫である。

また第1回東京優駿大競走(現在の日本ダービー)をワカタカ号で騎手として制した函館孫作は大経の養子(血縁では大経の実弟)である函館大次の婿養子である。

なお、競馬界において著名な門弟とその系統の多くは中央競馬の組織に属しているが、中央競馬の騎手及び調教師には函館姓を持つ者は2007年現在いない。

函館孫作や孫作の婿養子の政一などが戦後は地方競馬の船橋競馬場で厩舎を開業していた事もあり、現在は船橋競馬場に孫作の養子(血縁では孫)である函館一昭調教師がいるのみとなっている(2005年までは同じく船橋競馬場に函館喜弘調教師(孫作の養子、血縁では孫)がいたが、2005年6月7日に管理馬に腹部を蹴られる事故に遭い逝去)。


[編集] 門下生
大久保福松
武彦七
杉浦武秋
佐々木勇太郎
坪内元三郎
高橋伊三郎
函館大次
二本柳省三

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

橋口 弘次郎

橋口 弘次郎(はしぐち こうじろう、1945年10月5日 - )は日本の調教師で、日本中央競馬会栗東トレーニングセンターに所属。宮崎県出身。宮崎県立都城泉ヶ丘高等学校卒業。


[編集] 来歴
公営佐賀競馬で瀬戸山重春厩舎所属の騎手としてデビュー。 騎手引退後は、調教助手として栗東・吉永猛厩舎へ移ったのち、松井麻之助厩舎を経て、調教師試験に合格した。

免許取得は1980年3月1日であるが、厩舎を開業したのは丸2年後の1982年3月1日。初出走(同時に初勝利)は同年3月13日の阪神競馬第2競走のハクサンレンポーであった。GI勝ちは多いが、それ以上にGIでの2着が多いことで知られる。管理馬には、ダイタクリーヴァやローズバドのように惜しくもGI制覇に届かなかった馬もいれば、ツルマルボーイやハーツクライのように幾度もの善戦の末にGI制覇を果たした馬もいる。

東京優駿(日本ダービー)に人一倍執着を持っており、「私の一年はダービーに始まり、ダービーで終わる」と語ったこともある。その考え方を表すように、1999年から2006年まで、8年連続でダービーに管理馬を出走させている。1996年にダンスインザダークで、2004年にハーツクライで2着に入っているが、まだダービー制覇の夢は実現できていない。

2006年のドバイミーティングでは、GIIのゴドルフィンマイル(ユートピア)とGIのドバイシーマクラシック(ハーツクライ)に勝利した。日本人調教師として、ゴドルフィンマイルの優勝はドバイダート競走の初制覇、ドバイシーマクラシックの優勝はドバイGIの初制覇であり、またドバイミーティング2勝も初のことであった。

これと決めた調教方針に固執せず、常に試行錯誤を続けながら馬を育てている。実績を挙げた調教師は若手であってもすぐに評価し、その調教方針から範を取って、自らの調教に取り入れることもある。そのため、レース週の追い切りなどにはしばしば変化が見られる。栗東トレーニングセンターに坂路コースが完成した際、いち早く調教メニューに組み入れた調教師の一人でもある。

また、熱烈な読売ジャイアンツファンで知られ、2006年5月4日の阪神甲子園球場で行われた、阪神タイガース対読売ジャイアンツ戦のラジオ日本ジャイアンツナイターにゲスト出演した。


[編集] 管理競走馬
括弧内はGI(斜字は統一GI、太字は海外GI)の勝ち鞍

レッツゴーターキン(1992年天皇賞(秋))
ダンスインザダーク(1996年菊花賞)
ユートピア(2002年全日本2歳優駿、2003年ダービーグランプリ、2004年・2005年マイルチャンピオンシップ南部杯)
ザッツザプレンティ(2003年菊花賞)
ツルマルボーイ(2004年安田記念)
ハーツクライ(2005年有馬記念、2006年ドバイシーマクラシック)
ロジック(2006年NHKマイルカップ)

[編集] 関連項目
小倉競馬場
大崎昭一
高橋亮

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

橋田 満

橋田 満(はしだ みつる 1952年9月15日-)は、JRA栗東トレーニングセンターに所属する調教師である。父はタイテエム(1973年天皇賞・春優勝)を管理した橋田俊三元調教師。1983年に調教師免許を取得し、1985年3月16日に管理馬が初出走、同年5月11日に初勝利を挙げる。


[編集] 管理馬
有力馬主である近藤利一や永井啓弍とのつながりが非常に強く、代表的な管理馬の名前にはたいてい「アドマイヤ」や「スズカ」の冠名がつく。逆にこの2人の馬主以外の馬でのGI勝ちはパッシングショットの1回しかない。以下にGIタイトルを獲得した管理馬とレース名を挙げる。

アドマイヤベガ(1999年東京優駿)
アドマイヤコジーン(1998年朝日杯3歳ステークス、2002年安田記念)
アドマイヤマックス(2005年高松宮記念)
アドマイヤグルーヴ(2003年・2004年エリザベス女王杯)
アドマイヤホープ(2003年全日本2歳優駿)
サイレンススズカ(1998年宝塚記念)
スズカマンボ(2005年天皇賞・春)
パッシングショット(1990年マイルチャンピオンシップ)
その他にも有力馬を多数管理しており、現役馬で代表的なのはアドマイヤメインやアドマイヤフジである。

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

アンドレ・ファーブル

アンドレ・ファーブル(André Fabre、1945年12月9日 - )は、フランスの調教師。20年連続(1987年 - 2006年)でフランスのリーディング・トレーナーに輝き、凱旋門賞を7勝するなど、フランスを代表するホースマンの一人である。

西ドイツ駐在の外交官の息子として生まれ、20代前半まで西ドイツで生活した。大学で法律を学んだがファーブルは競馬界に入り、障害競走の調教師であるアンドレ・アデールの厩舎のスタッフとなった。その後ファーブルは障害競走の騎手となりパリ大障害などを制した。アデールが死ぬとその後を引継ぎ調教師となった。まず障害競走で頭角を表し、続いて平地競走でも成功した。

1987年に初めてフランスのリーディング・トレーナーになると、それから現在までその座を守り続ける。1993年から大馬主ダニエル・ウィルデンシュタインの所有馬を預かり、またオリビエ・ペリエを主戦騎手にした。このトリオで輩出した馬としてパントレセレブルが挙げられる。2001年にはダニエル・ウィルデンシュタインと確執の末に決別し、2003年にはオリビエ・ペリエが離れ、主戦騎手がクリストフ・スミヨンに変わる。2006年の凱旋門賞には3頭を出走させ、その中の1頭レイルリンクが日本から参戦したディープインパクトなどを破り勝利した。


[編集] 主な管理馬
トランポリーノ(凱旋門賞)
スボーティカ(凱旋門賞)
インザウイングス(ブリーダーズカップ・ターフ)
アルカング(ブリーダーズカップ・クラシック)
カーネギー(凱旋門賞)
ペニカンプ(2000ギニー)
パントレセレブル(凱旋門賞、ジョッケクルブ賞)
サガミックス(凱旋門賞)
ハリケーンラン(凱旋門賞、キングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークス、アイリッシュダービー)
シロッコ(ブリーダーズカップ・ターフ)
レイルリンク(凱旋門賞)

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

藤沢 和雄

藤沢 和雄(ふじさわ かずお、1951年9月22日 - )は中央競馬・美浦トレーニングセンター所属の調教師。北海道出身。新聞など(JRA公式ページにおける表記も含む)では常用漢字外の文字を使用するためには制約があるため左記の表記であるが、藤澤 和雄が正しい。

1995年から2004年まで10年連続全国最多勝を獲得。

目次 [非表示]
1 経歴
2 連載
3 著書
4 DVD
5 成績
5.1 記録年表
5.2 成績表
6 管理競走馬
6.1 代表馬
7 外部リンク
8 関連項目



[編集] 経歴
北海道産業大学にて教職課程を修得するが、教師への適性に自ら疑問を抱き、父の友人である小牧場「青藍牧場」の主、田中良熊の下で馬産の手伝いをするようになる。しかしその頃はホースマンになろうという確固たる信念は無く、彼にとって競馬界は自身の将来を定めるまでの短い「腰掛け」に過ぎなかった。

しかし「青藍牧場」で働く中、徐々に田中の影響を受け、藤沢はホースマンへの志を固めていく。そして田中の強い勧めで渡英、名門厩舎のギャビン・プリチャード・ゴードン厩舎の下で厩務員として4年間働き、そこで競馬に対する哲学、馬への接し方等、今日の藤沢厩舎を築くことになる競馬理論を形成していくことになる。彼の信念である「ハッピーピープル・メイク・ハッピーホース」はその最たるものであろう。ちなみに彼を競馬界へと導いた田中は、藤沢が渡英した翌年、急逝している。

帰国した藤沢は、美浦・菊池一雄厩舎の調教助手として日本のホースマンとしての第一歩を踏み出し、二冠馬カツトップエース(皐月賞、東京優駿(日本ダービー))の調教に携わるなど、闘病中の菊池に代わり、番頭として同厩舎を切り盛りする。菊池が病死し(厩舎清算のため、菊池の死後1年間、元調教師の佐藤勝美が名目上の後継調教師となっている)、厩舎が解散した後は野平祐二に誘われ、野平厩舎へ。そこで名馬シンボリルドルフと後の厩舎の主戦騎手岡部幸雄とめぐり合うことになる。

1987年、独立して厩舎を開業。初勝利は、若い管理馬たちのリーダーとなるよう地方競馬からスカウトした老馬ガルダンだった。しばらくしないうちに頭角を現すが、勝利数の割に重賞を勝てず手腕が疑問視された時期もあった。しかし、1992年に、シンコウラブリイで初重賞(ニュージーランドトロフィー4歳ステークス)制覇を達成すると、翌1993年には再びシンコウラブリイで初のGI(マイルチャンピオンシップ)を制覇。それからもタイキブリザード、バブルガムフェロー、レガシーオブゼルダ等を率いて数多の戦果を挙げ、1998年には管理馬タイキシャトルがフランスマイルレースの最高峰「ジャック・ル・マロワ賞」を鞍上岡部幸雄で1.9倍の断然人気で制覇する。(なお7日前には森秀行管理のシーキングザパールが鞍上武豊で「モーリス・ド・ギース賞」を制覇している)

この頃の藤沢の管理手法は、馬に無理はさせず、クラシックは意識せずに活躍は古馬になってからでもいいという考え方であった。 そのためか、日本競馬の最高峰、東京優駿(日本ダービー)にはなぜか縁がなく、バブルガムフェローの故障などもあり、2001年までロンドンボーイ(1989年/24頭中22着)ただ1頭しか出走馬がいなかった。

だが、2002年に久しぶりに管理馬を東京優駿(日本ダービー)出走させることとなり、この際には所属馬を一気に4頭も送り出した。

2004年には厩舎初のクラシック制覇(桜花賞)をダンスインザムードで飾り、ゼンノロブロイで秋古馬GI(天皇賞(秋)、ジャパンカップ、有馬記念)を三連勝する。

ちなみに日本中央競馬会には栗東に藤沢則雄(代表管理馬:ナリタセンチュリー)という同姓の調教師が在籍していることから、競馬新聞やスポーツ新聞では「藤沢和」と表記される。藤沢則雄とは漢字一文字しか違わないが、血縁関係は無い。


[編集] 連載
デイリースポーツサラブnet 藤沢和雄の「伯楽一顧」(Web)

[編集] 著書
競走馬私論―馬はいつ走る気になるか ザ・マサダ競馬BOOKS
競走馬私論―プロの仕事とやる気について 祥伝社黄金文庫

[編集] DVD
スーパートレーナー 藤沢和雄 名馬を語る ポニーキャニオン
スーパートレーナー 藤沢和雄 調教の秘密 ポニーキャニオン

[編集] 成績

[編集] 記録年表
1977年、菊池一雄厩舎にて調教助手となる。
1982年、佐藤勝美厩舎に移籍。
1983年、野平祐二厩舎に移籍、シンボリルドルフによって岡部幸雄との知遇を得る。
1987年、JRA調教師免許取得。
1988年3月開業。初出走は3月12日2回東京5日目1Rケイアイパワーの3着。
 4月24日1回新潟2日目11Rガルダンで延6頭目にして初勝利。

1992年、シンコウラブリイで初重賞(ニュージーランドトロフィー4歳ステークス)制覇
1993年、シンコウラブリイで初GI(マイルチャンピオンシップ)制覇、初の全国最多勝。
1996年、バブルガムフェローで初の天皇賞制覇、距離適性から菊花賞を回避しての制覇で英断が話題になる。
1997年、JRAの年間最多重賞勝利新記録達成(13勝)。
1998年、フランス・ドーヴィル競馬場のジャック・ル・マロワ賞でタイキシャトルが勝利し、前週のシーキングザパールに続く、日本調教馬2頭目の海外GI制覇に導く。タイキシャトルが藤沢管理馬初の年度代表馬となる。
2002年、シンボリクリスエスを筆頭に4頭を東京優駿(日本ダービー)に出走させる。
2004年、ダンスインザムードで桜花賞制覇。クラシック初勝利。ゼンノロブロイが秋の古馬GIを3連勝。
2006年、ダンスインザムードで新設GIヴィクトリアマイルを勝利する。

[編集] 成績表
年 勝利数・連対率 受賞名
1988年  8勝 (.193)  
1989年 15勝 (.227)  
1990年 22勝 (.241)  
1991年 36勝 (.307) '91JRA賞(最高勝率調教師)
1992年 34勝 (.320)  
1993年 44勝 (.319) '93JRA賞(最多勝利調教師・優秀技術調教師)、
1994年 37勝 (.305)  
1995年 53勝 (.333) '95JRA賞(最多勝利調教師・最多賞金獲得調教師・優秀技術調教師)、東京競馬記者クラブ賞
1996年 52勝 (.352) '96JRA賞(最多勝利調教師・最高勝率調教師・最多賞金獲得調教師・優秀技術調教師)
1997年 58勝 (.336) '97JRA賞(最多勝利調教師・最高勝率調教師・最多賞金獲得調教師・優秀技術調教師)、東京競馬記者クラブ賞
1998年 57勝 (.346) '98JRA賞(最多勝利調教師・最多賞金獲得調教師・優秀技術調教師)
1999年 49勝 (.310) '99JRA賞(最多勝利調教師・最高勝率調教師・優秀技術調教師)
2000年 57勝 (.344) '00JRA賞(最多勝利調教師・優秀技術調教師)
2001年 68勝 (.390) '01JRA賞(最高勝率調教師・最多賞金獲得調教師)
2002年 51勝 (.327) '02JRA賞(最多勝利調教師・最多賞金獲得調教師・優秀技術調教師)
2003年 63勝 (.382) '03JRA賞(最多勝利調教師・最高勝率調教師・最多賞金獲得調教師)
2004年 60勝 (.359) '04JRA賞(最多勝利調教師・最高勝率調教師・最多賞金獲得調教師)
2005年 48勝 (.286) '05JRA賞(優秀技術調教師)
2006年 55勝 (.316)

※1991年以来、2001年を除く毎年、優秀調教師賞(関東)受賞。


[編集] 管理競走馬

[編集] 代表馬
シンコウラブリイ
厩舎初の重賞、GI制覇を達成した名牝。
バブルガムフェロー
厩舎初の天皇賞(秋)制覇
タイキシャトル
厩舎初の年度代表馬、海外GI優勝馬
シンコウキング
1997年、高松宮杯優勝。
タイキブリザード
1997年、安田記念優勝。
スティンガー
1998年、阪神3歳牝馬ステークス優勝。
シンボリインディ
1999年、NHKマイルカップ優勝。
ゼンノエルシド
2001年、マイルチャンピオンシップ優勝。
シンボリクリスエス
2002年、2003年と2年連続年度代表馬
ゼンノロブロイ
2004年、天皇賞(秋)、ジャパンカップ、有馬記念の秋の主要GIを完全制覇。
ダンスインザムード
2004年桜花賞優勝。厩舎初のクラシック制覇。2006年新設GIヴィクトリアマイルを制覇し初代王者となる

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

藤本 冨良

藤本 冨良(ふじもととみよし、1907年12月18日 - 1994年10月8日)は、元騎手(東京競馬倶楽部、日本競馬会)、元調教師(国営競馬、日本中央競馬会(JRA))。1980年11月3日、勲五等双光旭日章を受章。2004年、騎手顕彰者として殿堂入り。静岡県磐田郡岩田村出身。1924年、岩田見付補修学校卒業。息子の藤本勝彦は元騎手(JRA)。

地方競馬(旗競馬)の馬主であった父・鹿蔵が騎手になることを熱望し、また自らも騎手を志した。地方競馬の騎手を経て、1924年4月に目黒競馬場・稲葉秀男厩舎へ弟子入りし見習騎手となる。当時は厩務員、調教助手、騎手の仕事に明確な境はなく、厩舎の掃除から馬の世話まで何でもこなしたという。

1930年7月、調教管理者資格を取得し騎手兼調教師となる。1938年、リードアンで中山農林省賞典障害(秋)を勝ち、調教師として重賞初制覇。戦前は「タイヘイ氏」の通称で知られた大川義雄(大川慶次郎の父)の外厩も管理していた。

太平洋戦争末期の1944年10月に兵役につき、1946年9月に調教師として国営競馬に復帰。JRA発足以後の通算勝利数1339勝は尾形藤吉、松山吉三郎に次ぐJRA史上第3位の記録である。また、クラシックレース5つをすべて制した調教師は藤本を含め4人しかいない。

門下生には天神乗りの名騎手・蛯名武五郎がいる。師弟関係に暴力が当たり前だった時代において、弟子には暴力を振るうことは決してなかったという。

目次 [非表示]
1 成績
1.1 騎手成績
1.2 調教師成績
1.2.1 主な勝ち鞍
1.2.2 受賞
2 門下生



[編集] 成績

[編集] 騎手成績
資料がなく不明


[編集] 調教師成績
9054戦1339勝(JRA発足以後)、重賞63勝(JRA発足以後は48勝)


[編集] 主な勝ち鞍
天皇賞(春)(1956年メイヂヒカリ、1961年ヤマニンモアー、1965年アサホコ、1968年ヒカルタカイ)
有馬記念(1956年メイヂヒカリ)
東京優駿(日本ダービー)(1954年ゴールデンウェーブ、1957年ヒカルメイジ、1967年アサデンコウ)
皐月賞(1948年ヒデヒカリ、1956年ヘキラク)
菊花賞(1955年メイジヒカリ)
桜花賞(1955年キヨタケ、1959年ケンホウ)
優駿牝馬(オークス)(1962年オーハヤブサ)
宝塚記念(1968年ヒカルタカイ)
中山大障害(秋)(1962年ライトリア)

[編集] 受賞
最多勝利調教師(全国)(1970年、1971年)
最多勝利調教師(関東)(1954年、1970年、1971年)
優秀調教師賞等16回受賞

[編集] 門下生
蛯名武五郎
清水美波
嶋田潤
町屋幸二
竹内玄
坂内光雄
横山登
松尾兵治
清水利章

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

本田 優

本田 優(ほんだ まさる、1959年1月4日 - )は日本中央競馬会(JRA)の調教師である。栗東所属。160cm、52kg。東京都出身。

目次 [非表示]
1 来歴
2 成績
2.1 GI(級)競走勝利一覧及び当該競走における騎乗馬(年度別)
2.2 年度別成績
2.3 表彰歴



[編集] 来歴
騎手デビューは1980年3月1日の阪神競馬第1競走で、ロビンソンシチーに騎乗し2着。同年3月30日の阪神競馬第3競走でカンザンスピードに騎乗し初勝利。

重賞初勝利は1981年の京都記念(春)(1983年までは年2回施行の競走であった)で初騎乗馬のロビンソンシチーにて挙げる。そして1986年にはゴールドシチーで阪神3歳ステークスに勝利。これがGI初勝利となった。

1990年代に入ると勝ち星はそこそこ挙げ、勝率・連対率共に着実に結果を残すものの大きなタイトルには縁が無く、地味な印象があったが、2000年の阪神3歳牝馬ステークスでテイエムオーシャンに騎乗し、実に14年振りのGI制覇を果たした。翌年も同馬とのコンビで桜花賞、秋華賞を勝利するなど活躍。

その後は勝ち星も徐々に上昇。またマイソールサウンドなどで重賞勝利も重ね、ベテランならではの渋い活躍ぶりを見せている。騎乗フォームは柔らかく、芝レース、特に牝馬騎乗での活躍が目立つ。しかし、その半面強気すぎて人気を裏切ったりすることもあり、テイエムオーシャンの優駿牝馬(オークス)で横山典弘に出し抜けされ、3着に敗れたときは「騎手が下手だったと書いてくれて結構です」と発言し、物議をかもした(一般的に騎手はこのような自己のミスを責める直接的な発言はしない)。

2005年2回函館競馬4日目第6競走においてイアラユーラシアに騎乗し、中央競馬通算700勝を達成した。

2006年には優駿牝馬で上がり馬のカワカミプリンセスに騎乗し、最年長で優勝を果たすと、同年の秋華賞もカワカミプリンセスで制した。エリザベス女王杯でも1位に入線し、ファインモーション以来の無敗の制覇かと思われたが、審議の結果直線でヤマニンシュクルの進路を妨害したとして12着降着(16頭中)となった。ここでも「全部おれの責任」と発言した。

2007年2月15日、調教師試験に合格、JRAの調教師免許を取得した。そのため、2月25日の阪急杯のニシノデュー(6着)を最後に2月28日付で騎手から引退した。


[編集] 成績

[編集] GI(級)競走勝利一覧及び当該競走における騎乗馬(年度別)
1986年
阪神3歳ステークス - ゴールドシチー
2000年
阪神3歳牝馬ステークス - テイエムオーシャン
2001年
桜花賞 - テイエムオーシャン
秋華賞 - テイエムオーシャン
2006年
優駿牝馬(オークス) - カワカミプリンセス
秋華賞 - カワカミプリンセス
以上JRA・GI6勝


[編集] 年度別成績
年 勝利数 連対率 勝率 備考
1980年 22勝 .152 .073
1981年 32勝 .189 .103
1982年 14勝 .187 .061
1983年 22勝 .169 .093
1984年 14勝 .146 .071 通算100勝達成
1985年 20勝 .227 .123
1986年 21勝 .211 .091
1987年 18勝 .165 .059
1988年 35勝 .248 .152
1989年 21勝 .191 .091
1990年 27勝 .235 .113
1991年 29勝 .189 .101
1992年 19勝 .179 .068
1993年 23勝 .204 .117
1994年 30勝 .229 .135
1995年 25勝 .215 .100
1996年 28勝 .240 .097
1997年 30勝 .172 .101
1998年 27勝 .193 .070
1999年 34勝 .186 .106
2000年 30勝 .183 .087
2001年 35勝 .188 .110
2002年 20勝 .147 .072
2003年 40勝 .203 .111
2004年 56勝 .201 .106 関西リーディング9位
2005年 48勝 .188 .086
2006年 34勝 .167 .089
2007年 3勝 .171 .043

以上JRA755勝、重賞27勝。うち障害競走は1980年4戦0勝(2007年2月終了時点)


[編集] 表彰歴
関西放送記者クラブ賞(最多勝利新人騎手) - 1980年
JRAフェアプレー賞 - 1988年、1996年、1999年、2001年、2003年

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

増沢 末夫

増沢 末夫(ますざわ すえお、1937年10月20日 - )はJRA(日本中央競馬会)所属の調教師、元騎手。北海道生まれ。

因みに、増沢末夫では無く増澤末夫が戸籍上の表記である[1]。

目次 [非表示]
1 略歴
2 騎手時代の主な騎乗馬
3 調教師時代の主な管理馬
4 歌
5 著書
6 脚注
7 関連項目



[編集] 略歴
1957年に騎手デビュー。1992年に引退するまでの通算成績は12780戦2016勝と素晴らしい成績であった。その中身は東京優駿(日本ダービー)2勝[2]や中央競馬所属の騎手としては初となる通算2000勝を達成するなど「鉄人」の愛称で親しまれた。

特にハイセイコーとのコンビでは競馬ブームを巻き起こし『さらばハイセイコー』という曲を自ら歌いレコードを出すなど一世風靡した[3]。

逃げ戦法を得意とし、しばしば大逃げを打ち穴をあけたことから「逃げの増沢」の愛称が定着。まだ実力のない逃げ馬でも、増沢が乗ると人気になる現象もみられた。小回りコースが多く逃げが決まりやすいローカル開催での活躍も目立ち、特に福島競馬場でのレースでは「増沢の庭」と呼ばれるほどの圧倒的な強さを誇った。

引退後は調教師に転身。1993年に厩舎を開業した。開業初年度にいきなり重賞を制覇するなど、流石と思わせるの一面も見られたが、調教師としてはまだ中央競馬のGIを勝つまでには至っていない。しかしながら、交流GIは2005年にかしわ記念をストロングブラッドで制している。所属騎手に増沢由貴子(旧姓:牧原)がおり、息子の真樹(調教助手)の夫人である。


[編集] 騎手時代の主な騎乗馬
アサデンコウ(東京優駿)
イシノヒカル(菊花賞、有馬記念)
ハイセイコー(皐月賞、宝塚記念)
ハワイアンイメージ(皐月賞)
ダイナガリバー(東京優駿、有馬記念)
ユキノサンライズ(中山記念、中山牝馬ステークス、フラワーカップ)
又、優勝こそしていないもののオグリキャップ(天皇賞(秋)、ジャパンカップ)にも騎乗している。


[編集] 調教師時代の主な管理馬
ダイワテキサス(オールカマー、中山記念)
ストロングブラッド(かしわ記念)
ダイワパッション(フィリーズレビュー)
ユキノサンロイヤル(日経賞)
ダイワカーソン(京王杯3歳ステークス)
レイズスズラン(さきたま杯、彩の国浦和記念)

[編集] 歌
さらばハイセイコー(1975年1月1日、45万枚)2000年8月23日『さらばハイセイコー 完全追悼盤』も発売。
ハイセイコーよ元気かい(1975年4月1日、14万枚)
いななけカツラノハイセイコ(1979年、7万枚)

[編集] 著書
鉄人ジョッキーと呼ばれて

[編集] 脚注
^ 戸籍上では旧字体の澤を使用。詳細は戸籍上の表記を使用する地方競馬全国協会のデータ情報を参照の事。
^ 1勝目はアサデンコウで勝ったもので、以外にもこれが初重賞制覇だった。2勝目はダイナガリバーで勝ったもので、史上最年長のダービー勝利騎手、同時に史上最年長のクラシック勝利騎手となった。
^ 2000年にNHKの『思い出のメロディー』に出演して歌ったが、ハイセイコーの死の直後だったため、名実ともに思い出のメロディーになってしまった。

[編集] 関連項目
増沢由貴子(義理の娘)
武邦彦(同期生)

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

松田 国英

松田 国英(まつだ くにひで、1950年9月28日 - )は日本中央競馬会 (JRA) の調教師である。栗東トレーニングセンター所属で、競馬ファンからは松国と呼ばれることが多い。


[編集] 来歴
北海道の競走馬を生産する牧場の息子として生まれる。競馬専門紙のトラックマン、伊藤修司厩舎などでの調教助手を経て、1995年に調教師免許を取得。

初出走は1996年11月30日の中京競馬第4競走でのタニノポリシー(10着)。初勝利は1997年2月8日の小倉競馬第2競走でのタニノマウナケア(延べ28頭目)であった。


[編集] こだわりと批判
1600mと2400m異なる距離のGIで好走すれば、引退後に種牡馬としての価値が高まると考えており、3歳時にはNHKマイルカップから東京優駿というローテーションを採用することが多い。2001年にクロフネで初めて挑み、NHKマイルカップで優勝するが東京優駿では5着。翌2002年のタニノギムレットの場合は、皐月賞3着の後NHKマイルカップで3着に入り、東京優駿で優勝した。そして2004年、キングカメハメハでついに両GIを制覇した。なお、日本の現役調教師で東京優駿を2勝しているのは松山康久と瀬戸口勉、松田の3人だけである。また、2006年にもフサイチリシャールが同様のローテーションを取った(皐月賞5着、NHKマイルカップ6着、東京優駿8着)。3歳の秋のローテーションではクラシック路線の菊花賞には拘らず、クロフネやキングカメハメハなどは天皇賞(秋)を目指していた。

藤沢和雄や山内研二らと同様に、「馬の調子がいいときにはどんどん使う」という考えの持ち主でもあり、短期間で数多の重賞優勝馬を輩出したが、クロフネ、タニノギムレット、キングカメハメハが古馬になる前に故障で引退してしまったことや、ハードなローテーションを採用することで、一部の競馬ファンからは「馬壊し屋」として批判の対象となっている。


[編集] 代表管理馬
クロフネ(ジャパンカップダート、NHKマイルカップ)
タニノギムレット(東京優駿)
キングカメハメハ(東京優駿、NHKマイルカップ)
ダイワエルシエーロ(優駿牝馬)
フサイチリシャール(朝日杯フューチュリティステークス)

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

松田 博資

松田 博資(まつだ ひろよし、1946年1月29日 - )はJRAの調教師。




目次 [非表示]
1 データ
1.1 略歴
1.2 所属場歴
1.3 表彰歴
2 代表管理馬
3 所属騎手
4 関連項目



[編集] データ
出身地:佐賀県
所属場:栗東トレーニングセンター
初出走:1983年3月19日 1回小倉3日目 第1レース、ハツシゲ(14着)
初勝利:1983年4月23日 3回京都1日目 第7レース、ボールドスミス(のべ2頭目)

[編集] 略歴
1981年 - 調教師免許を取得
1983年 - 厩舎開業

[編集] 所属場歴
1981年~:栗東トレーニングセンター

[編集] 表彰歴
2003年 優秀調教師賞(関西)
2006年 最多賞金獲得調教師賞
2006年 優秀調教師賞(関西)
2006年 JRA賞(最多賞金獲得調教師)




[編集] 代表管理馬
コスモドリーム(1988年オークス)
ベガ(1993年桜花賞、オークス)
ブゼンキャンドル(1999年秋華賞)
アドマイヤドン
タイムパラドックス

[編集] 所属騎手
高田潤

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

松永 幹夫

松永 幹夫(まつなが みきお、1967年4月10日 - )は日本中央競馬会(JRA)の元騎手で、現在は調教師である。血液型はO型、熊本県合志市(旧・菊池郡西合志町)出身。

童顔で甘いマスクを持ち、デビュー直後から女性ファンが多くついた。いわゆるアイドル視される騎手のはしりで、競馬場に多くの若い女性が訪れるきっかけともなった。名前をもじってミッキーという愛称でも呼ばれる。

目次 [非表示]
1 来歴
2 成績
2.1 騎手成績
2.2 GI競走勝利一覧及び当該競走における騎乗馬(年度別)
2.3 表彰歴
3 エピソード



[編集] 来歴
JRAの競馬学校の第2期生。1986年にデビュー。同期には横山典弘、熊沢重文らがいる。初騎乗は1986年3月1日、阪神競馬第1競走のインターアビリティで、13頭立ての12着だった。初勝利は同年3月23日、阪神競馬第7競走で、ツルマイスワローに騎乗してものであった。

1988年の函館3歳ステークスをサザンビーナスで制して重賞初勝利。1991年にはイソノルーブルで優駿牝馬(オークス)を制しGI初勝利。

その後も活躍を続けるがゼネラリストの調教中に落馬事故で腎臓を摘出し、休養に入る。復帰後、1996年の第1回秋華賞をファビラスラフインとのコンビで快勝。翌1997年には、キョウエイマーチに騎乗して桜花賞に勝利。しかも同期で後に二冠牝馬となるメジロドーベルを破ってのものである。秋シーズンでも秋華賞をメジロドーベルの2着、マイルチャンピオンシップでもタイキシャトルの2着と好走した。

2000年にはチアズグレイスで桜花賞を、ファレノプシスでエリザベス女王杯を制した。現役騎手時代に牝馬限定GIで勝てなかったレースは、2歳GIの阪神ジュベナイルフィリーズのみであった。

このように牝馬限定重賞で活躍することが多いため「牝馬の松永(ミキオ)」と呼ばれることもある。また、ダートの短距離での逃げ・先行のうまさには定評がある。その反面、(腰痛の持病もあり)追込脚質の馬を苦手とした。1997年の牡馬クラシックで主役を張ったメジロブライトはまさにその典型で、勝てたのはラジオたんぱ杯3歳ステークスと共同通信杯4歳ステークスのみで、本番ではサニーブライアン(皐月賞、東京優駿)とマチカネフクキタル(菊花賞)に敗れ、松永も菊花賞を最後にメジロブライトの鞍上を下りることとなる。(菊花賞の次走からは河内洋が騎乗)

かといって牡馬がまったくダメだったというわけではなく、ダートで活躍したカネツフルーヴやレギュラーメンバー、素質は認められながら脚部不安で大成し切れなかったマイシンザンなども松永が騎乗していた。

2005年にはヘヴンリーロマンスに騎乗し、天皇賞(秋)を制した。これは松永自身、牝馬限定以外では初のJRAGI勝利(※1)である。所属厩舎でのJRAGI初勝利、エアグルーヴ以来の牝馬の天皇賞制覇、3連単の配当が100万円を超えるなど、記録ずくめの勝利となった。またこの競走は、日本の中央競馬史上初めて、天覧競馬として施行され、ヘヴンリーロマンスで優勝を決めた後、メインスタンドの特設会場で観戦した今上天皇・皇后に向かい、馬上から(※2)、ヘルメットを脱いで敬礼をした。レース後、「天皇賞も牝馬で勝ったのが自分らしい」とコメントした。

2006年度JRA調教師試験に合格したためわずか38歳で鞭を置くこととなった。調教師試験は競馬関係者にとっても非常に難関な試験として有名である(中には10回以上受験した者もいる)が、わずか1回の受験で見事に合格した。本人としては、若くて元気のある内に調教師になりたかったと語っているが、2007年に自分の所属する山本正司調教師が定年により厩舎を解散することが決定していたことも大きいといわれている。

騎手としての最終騎乗日となった2006年2月26日の阪急杯でブルーショットガンに騎乗、出走馬14頭中11番人気という低人気だったが見事優勝し、続く最終競走でもフィールドルージュで勝利。引退レースにてJRA通算1400勝を飾るというあまりにも劇的な有終の美を飾った。最終騎乗日に重賞に勝ったのは1975年2月16日の野平祐二が目黒記念でカーネルシンボリに騎乗して勝利した例がある。

2007年2月で引退した師匠の山本の後を継ぎ、3月1日に厩舎を開業。3月4日の阪神競馬場でダノンシャトルで厩舎開業後、初めてレースに出走した(鞍上は四位洋文騎手)。道中は先行したが、直線で伸びきれず5着に終わった。


[編集] 成績

[編集] 騎手成績
JRA通算 12416戦1400勝(うち重賞54勝、GI6勝)
地方競馬通算 191戦32勝(うちGI5勝)

[編集] GI競走勝利一覧及び当該競走における騎乗馬(年度別)
(カッコ内は騎乗馬名。また、斜字は統一GIを指す)

1991年
優駿牝馬(イソノルーブル)
1996年
秋華賞(ファビラスラフイン)
1997年
桜花賞(キョウエイマーチ)
2000年
桜花賞(チアズグレイス)、ダービーグランプリ(レギュラーメンバー)、エリザベス女王杯(ファレノプシス)
2001年
川崎記念(レギュラーメンバー)、JBCクラシック(レギュラーメンバー)
2002年
帝王賞(カネツフルーヴ)
2003年
川崎記念(カネツフルーヴ)
2005年
天皇賞(秋)(ヘヴンリーロマンス)

[編集] 表彰歴
関西放送記者クラブ賞(新人騎手賞) - 1986年
優秀騎手賞(勝利度数部門) - 1987年、1989年、1991年、1995年、1997年、2000年
優秀騎手賞(勝率部門) - 1989年、1997年
優秀騎手賞(賞金獲得部門) - 1989年、1997年、2000年
フェアプレー賞(関西) - 1987年、1992年~1994年、1997年~2001年、2004年

[編集] エピソード
牝馬のミッキーと言われているが実際に「この馬はGIを勝てる」と意識したのは1987年、藤森特別のある芦毛馬(タマモクロス)であるらしい。しかし、その馬は南井克巳が主戦騎手だったのであきらめざるを得なかったとか。
武豊とともに子供が生まれない夫婦として有名だったが、2005年に双子が誕生し、父親となった。
1000勝で調教師試験の一次試験が免除となる規定が廃止された2003年以降、調教師試験を一発合格した1000勝以上の現役騎手は松永が初めてである。
騎手として最後の騎乗となった2006年2月26日は、出身地である熊本県西合志町が隣の合志町と合併し合志市となるのに伴い、西合志町として最後の日でもあった。
※1 ダートグレード競走では、カネツフルーヴ(帝王賞、川崎記念)、レギュラーメンバー(ダービーグランプリ、川崎記念、JBCクラシック)と山本正司厩舎所属の牡馬でGIを勝利している。
※2 騎乗馬が故障した場合を除き、競走後にコース内で騎手が下馬することは禁止されている。

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

松山 吉三郎

松山 吉三郎(まつやま きちさぶろう、1917年2月2日 - 2006年12月20日)は、元騎手(東京競馬倶楽部、日本競馬会、国営競馬)、元調教師(国営競馬、日本中央競馬会(JRA))。JRA調教師顕彰者。1929年、東京都目黒区油面尋常小学校卒業。鹿児島県隼人町出身。妹はバレエダンサーの松山樹子。父の松山徳茂は戦前の日本競馬会の元調教師。息子の松山康久はJRAの調教師(ミスターシービーやジェニュインを管理)。

目次 [非表示]
1 経歴
2 成績
2.1 騎手成績
2.2 調教師成績
2.2.1 主な勝ち鞍
2.2.2 受賞
3 門下生



[編集] 経歴
実家はもとは農家であったが、父・徳茂が上京し東京競馬場・尾形藤吉厩舎の厩務員となったため、東京へ移り住んだ。

1929年、尾形藤吉厩舎の見習騎手となる。尾形の指示により1933年まで千葉県の若草牧場で牧夫として働き、1934年に騎手免許を取得。1935年4月2日、レイロウで初騎乗、1936年3月28日、アカイシタケで初勝利。しかし大久保亀吉、保田隆芳ら名騎手を数多く抱えていた尾形厩舎の中にあって騎乗機会に恵まれず、また肺結核を患ったこともあって騎手としては目が出ず、専ら尾形のもとで厩舎の実務を取り仕切る現場責任者の役割を果たした。

なお、1936年に父・徳茂が調教師免許を取得し鳴尾競馬場で厩舎を開業すると尾形厩舎を離れて移籍したが、1938年に厩舎の所属騎手が起こした八百長事件を理由に徳茂が調教師免許取り消しの処分を受けたため、松山は尾形厩舎に復帰した。

太平洋戦争では肺結核の既往症を理由に兵役を免除され、競馬開催が一時停止に追い込まれると東北地方で日本競馬会の運送業(挽馬機動隊)に従事した。

1950年8月10日、調教師免許を取得。1951年1月5日、ヤシマザクラで初出走、同年5月12日初勝利を挙げる。1952年、スウヰイスーで桜花賞、優駿牝馬(オークス)、安田賞(現在の安田記念)に勝利。しかしスウヰイスーは実際には師匠である尾形藤吉の管理馬であり、いわば調教師の名義を貸していたに過ぎなかった(ちなみに、当時名義貸しは違法ではなかった)。

その後徐々に調教師として自立していった松山は、1956年と1958年に年間最多賞を記録。スターロッチ、モンテプリンス、ダイナガリバーなど数多くの名馬を送り出した。

JRAが調教師の70歳定年制を導入したため、1994年2月27日に引退式を行い、翌28日付で調教師を引退。調教師としての通算勝利度数1358勝は、尾形藤吉に次ぐJRA史上第2位の記録である。

2004年、調教師顕彰者として殿堂入りした。

2006年12月20日17時10分、89歳で肺炎のため亡くなった。


[編集] 成績

[編集] 騎手成績
資料がないため不明


[編集] 調教師成績
通算成績9157戦1358勝、重賞55勝


[編集] 主な勝ち鞍
天皇賞(春)(1959年トサオー、1982年モンテプリンス、1984年モンテファスト)
有馬記念(1960年スターロッチ、1986年ダイナガリバー)
宝塚記念(1982年モンテプリンス)
東京優駿(日本ダービー)(1962年フェアーウイン、1986年ダイナガリバー)
優駿牝馬(オークス)(1952年スウヰイスー、1960年スターロッチ)
桜花賞(1952年スウヰイスー)
中山大障害(春)(1955年、シマユキ)

[編集] 受賞
全国リーディングトレーナー(1956年、1958年)
優秀調教師賞(関東)(1958年、1959年、1961年-1965年、1987年、1992年)
調教技術賞(関東)(1965年、1967年、1969年-1973年、1978年、1979年、1985年)
重賞獲得調教師賞(1986年)
スポーツ功労者 文部科学大臣顕彰(1992年度)

[編集] 門下生
吉永正人
中神輝一郎
竹原啓二
沢峰二
松山康久

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

松山康久

松山康久(まつやま やすひさ 1943年9月4日-)は東京都出身の日本中央競馬会所属の調教師である。 父は元調教師の松山吉三郎。

三冠馬ミスターシービーをはじめ、ウィナーズサークル、ジェニュインなど多くの名馬を手がけた。

目次 [非表示]
1 来歴
2 成績
3 主な管理馬
4 受賞



[編集] 来歴
1966年父・吉三郎の厩舎で調教助手となる。その後1974年に調教師免許を取得し、開業。

初出走は1976年3月6日2回中京7日目第9レースでラスティー(3着)。 初勝利は同年5月3日3回東京1日目第2レースでクロバーウィング(延べ11頭目)。 重賞は1977年の朝日杯3歳Sをギャラントダンサー(吉永正人騎乗)で初勝利。

クラシックは日本ダービーを2勝(ミスターシービー、ウィナーズサークル)、皐月賞を2勝(ミスターシービー、ジェニュイン)している。

父の門下生である吉永正人、竹原啓二を主戦として騎乗させていた。現在は柴田善臣、横山典弘、後藤浩輝の起用が多い。


[編集] 成績
6022戦854勝(重賞36勝) ―2007年3月7日現在


[編集] 主な管理馬
※カッコ内は主な勝ち鞍

ミスターシービー(三冠馬)
ウィナーズサークル(日本ダービー)
ジェニュイン(皐月賞、マイルCS)
ギャラントダンサー(朝日杯3歳S)
ワシントンカラー(ガーネットS、根岸S)
ダイワレイダース(七夕賞)現役
クロカミ(京王杯AH府中牝馬S )
ニフティニース(セントウルS、関屋記念)

[編集] 受賞
調教技術賞(関東)・・・1979年~1982年
最優秀調教師賞・・・1983年
優秀調教師賞(関東)・・・1985年~1987年、1989年、1990年、1992年~1994年、1996年~1998年、2000年、2002年。2003年
JRA賞(最多勝利調教師)・・・1994年
最多勝利調教師賞・・・1994年

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

的場 均

的場 均(まとば ひとし、1957年3月25日 - )は、北海道新冠町出身の日本中央競馬会の元騎手で、現在は調教師。柄崎孝調教師は妻の兄。次男の的場勇人が、2006年3月に中央競馬騎手としてデビューした。


[編集] 来歴
北海道新冠町の農家の10人兄弟の末っ子として生まれる。家が競走馬の生産牧場をやっていた事から、2歳のころから馬に乗るようになる。4歳の時に父親に連れて行かれた札幌競馬場で初めて競馬を見て、騎手を志すようになる。

中学卒業後、馬事公苑長期騎手講習を受験するが不合格。大久保房松調教師に弟子入りし、短期騎手講習を経て1974年に騎手免許を取得。翌1975年3月8日、タイコウヒメで初騎乗。同年7月6日にリュウセイで初勝利。

1976年、ジャンボキングでスプリンターズステークスに勝って重賞初勝利。翌1977年には関東リーディング5位に浮上する。1990年、ドクタースパートで皐月賞を勝ち、グレード制導入後GI初勝利。なお、GI級の重賞初勝利は1983年の朝日杯3歳ステークス(優勝馬ハーディビジョン)。

ライスシャワーとのコンビでは全国区の人気を集めた。1992年の菊花賞で三冠馬を目指すミホノブルボンを破り、翌1993年の天皇賞(春)ではメジロマックイーンの同レース3連覇を阻止するなど、歴史的な記録を相次いで阻止したため、的場とライスシャワーは「関東の刺客」「マーク屋」「業師」「仕事人」などと呼ばれた。ちなみに的場が勝ったレースを実況したことが多い関西テレビの杉本清アナウンサーは彼のことを「この馬と決めたときは怖い。」(1993年天皇賞(春)、1999年宝塚記念)と言えば、後を継ぐ馬場鉄志アナウンサーも「京都の坂越えは的場均」(1997年エリザベス女王杯、2000年マイルチャンピオンシップ)と実況で使用していた。

騎手としての最晩年にはグラスワンダーとのコンビで再び全国区の人気を集め、1998年、1999年の有馬記念2連覇、1999年の宝塚記念を含めてグランプリ3連覇という大偉業を達成している。ちなみに的場はグラスワンダーと同世代のライバル・エルコンドルパサーの主戦騎手でもあったが、1998年の毎日王冠で2頭が直接対決することとなり、どちらに乗るか選択を迫られた的場は、迷った末にグラスワンダーを選んだ。グラスワンダーも前述の偉大な実績を残したがエルコンドルパサーも海外のGIに勝ち欧州最高峰のレース凱旋門賞で2着に入るなどして活躍したため、毎日王冠における的場の選択は競馬ファンの間で話題の種となった。

2001年2月28日に騎手を引退。生涯成績12309戦1440勝、重賞63勝、GI13勝(グレード制導入後)。

騎手時代の的場はGIで勝利してもウイニングランをしなかった。これは、全力で走った後の馬をまた走らせるのはかわいそうだから、ということだったらしい。また、ゴールした後は無事に馬を止めることが何より大事だという理由で、ゴール後にガッツポーズをすることもなかった。彼の優しい性格を物語るエピソードである。そのため、蛯名正義(ステージチャンプ)と武豊(スペシャルウィーク)は的場との接戦時に的場がアクションをしなかったこともあって差しきったと思いガッツポーズを行ってしまっている。(両名ともハナ差2着であった)




騎手を引退後は調教師に転進し、2002年に厩舎を開業した。初出走は同年3月2日中山競馬第8競走のローランドラグーンで、初勝利は同年6月1日中京競馬第8競走のユウワンキングで挙げた。

歌手のさだまさしと親交があり、通算1000勝を記念して、さだが作詞・作曲した『ひとりぽっちのダービー』という曲を歌ったCDシングルを出している。関係者にのみ配布されたもので市販はされていない。間奏に被せて、ライスシャワーで天皇賞を制覇した時の競馬実況が録音されている(ちなみに、さだ本人のCDに収録されているものは、『ダービー』だけに、ナリタブライアンが日本ダービーを制覇したときのものである)。

趣味はワイン。 座右の銘は「夢無限」「乗らずに馬がわかる日まで」。


[編集] 主な騎乗馬
カシマウイング - 的場とのコンビで重賞3勝。それに至るまでには2着14回の苦闘があった
ドクタースパート - 皐月賞を勝利、初めてクラシックを制覇
リンドシェーバー - 朝日杯3歳ステークスでマルゼンスキーのレコードを破る。
ライスシャワー  - ライスシャワーの項を参照。
カネツクロス - タマモクロスを代表する産駒の1頭。主に逃げの戦法で重賞を3勝した
スピードワールド - 大器といわれたが、早熟の馬で勝鞍は京成杯にとどまる。
グラスワンダー  - グラスワンダーの項を参照。
エリモシック   - エリザベス女王杯でダンスパートナーの連覇を阻む。
エルコンドルパサー - 蛯名正義の馬の印象が強いが、NHKマイルカップまでは的場騎乗で勝利。
エリモエクセル  - 優駿牝馬(オークス)で、後に二冠牝馬となるファレノプシスを破る。
アグネスデジタル - 四位洋文の馬の印象が強いが、全日本2歳優駿とマイルチャンピオンシップは的場騎乗で勝利した。

[編集] 著書
夢無限(流星社)

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

南井 克巳

南井 克巳(みない かつみ、1953年1月17日 - )は愛知県刈谷市出身の日本中央競馬会(JRA)の元騎手で現在は調教師。騎手としての成績は13120戦1527勝。名が示すとおり、巳年の生まれ。騎手の南井大志は長男。


[編集] 来歴
地元刈谷の祭り「万燈祭」で饗される古式競馬に惹かれ、騎手に憧れるようになる。隣町(愛知県豊明市)にある中京競馬場の厩舎に通い、工藤嘉見調教師に声をかけられ、1970年に騎手見習いとして入門する。
1971年騎手としてデビューする。
一時期、「大舞台」にも恵まれず、勝利数も上積みがないことからスランプに陥り引退も考えたという。
1978年宇田明彦厩舎に転属。
1987年小原伊佐美調教師からタマモクロスの騎乗を依頼される。このことが今後の南井の方向性を位置づける。タマモクロスは1987年の夏までは単なる条件馬にすぎなかったが、秋になると頭角を現し、条件戦をクリア、重賞初挑戦となる鳴尾記念を制し、翌1988年には金杯・西、阪神大賞典、天皇賞(春)、宝塚記念、天皇賞(秋)と6連勝を果たす。その後ジャパンカップと有馬記念は惜しくも2着だったが、連を外すことはなかった。後に南井も騎乗するオグリキャップとの死闘は競馬ブームのさなか、今まで見向きもされなかった芦毛の馬が脚光を浴びるようになる。
タマモクロスの騎乗により南井にも有力馬の騎乗依頼が多くなった。中でも特筆すべきはオグリキャップの全盛期と言うべき数え5歳秋の年の騎乗である。毎日王冠でのイナリワンとの死闘、天皇賞(秋)でのスーパークリークへの敗北(オグリは敗戦の悔しさのあまり、勝ったスーパークリークを睨み付けたまま動かなかったという)、マイルチャンピオンシップでの、絶望的な位置からの差し切り(南井はその勝負根性に感涙した)、連闘で迎えたジャパンカップでの世界レコードの激走など、「豪腕」と言われた南井は根性を剥き出しにして走るオグリキャップとは相性が良かった。多数の名手を鞍上に迎えたオグリキャップにとってもベストパートナーと言えただろう。
1993年、大久保正陽調教師から「まだダービーとったことないよね?」と言われてナリタブライアンへの騎乗を依頼され(大久保はこの発言を「トップジョッキーに対してそのような失礼なことは言わない」と否定している)、主戦騎手となる。翌1994年、ナリタブライアンは史上5頭目となるクラシック三冠の栄光に輝いた。
1994年年間GI5勝(ナリタブライアンで4冠+マーべラスクラウンでジャパンC)の大活躍で、JRA賞特別賞・日本プロスポーツ大賞殊勲賞を受賞した。また、年末の紅白歌合戦に審査員として出演。
1998年には悲運の名馬といわれたサイレンススズカへの代打騎乗で宝塚記念を制し、この馬唯一のGIタイトルをとった。
1999年に騎手を引退し、調教師となる。引退レースは自らの出発点であった中京競馬場で迎え、当日メイン、且つ自身のラストランであった準オープン白川郷ステークスでは、見事リキアイワカタカを一着に持ってきて有終の美を飾った。この時現場で見守ったファンは、あたかもGIレースと見まごうばかりの大歓声で彼を送っている。
2000年工藤嘉見厩舎を引き継ぎ、ウイングアローで第1回ジャパンカップダートを制す。騎手としてGIを制覇するまでは18年もの歳月を要したが、調教師としては1年目からGIを制した。

[編集] 主な騎乗馬
タマモクロス(1988年天皇賞(春)、宝塚記念、天皇賞(秋))
オグリキャップ(1989年マイルチャンピオンシップ)
バンブービギン(1989年菊花賞)
ハクタイセイ(1990年皐月賞)
イブキマイカグラ(1990年阪神3歳ステークス)
エルウェーウィン(1992年朝日杯3歳ステークス)
ナリタブライアン(1993年朝日杯3歳ステークス、1994年 皐月賞、東京優駿、菊花賞、有馬記念)
マーベラスクラウン(1994年ジャパンカップ)
マチカネフクキタル(1997年菊花賞)
サイレンススズカ(1998年宝塚記念)

[編集] 主な管理馬
ウイングアロー(2000年ジャパンカップダート)
タマモホットプレイ(2004年スワンステークス、2006年シルクロードステークス)
ビッグプラネット(2005年アーリントンカップ、2006年京都金杯)

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

宮本 博

宮本 博(みやもと ひろし、1963年3月27日 - )は日本の調教師で、日本中央競馬会(JRA)栗東トレーニングセンターに所属。

父が厩務員であったため、京都競馬場で生まれ、栗東トレーニングセンターで育つ。また、伯父の宮本悳はタニノハローモアで東京優駿(日本ダービー)を制した元騎手で、元調教師である。父の勧めもあり15歳より馬術をはじめ、京都産業大学時代に馬場馬術で関西学生ナンバーワンとなる。

競馬学校を卒業した1985年7月から、親戚である中尾謙太郎厩舎に厩務員として所属。同年11月からは調教助手となる。2003年に調教師免許取得し、翌2004年に開業。初出走は同年3月13日、中京競馬第4競走のクラウドシチーで12着であった。翌月、園田競馬でナリタボールド、ナリタチャンピオンが交流戦を勝利。JRA初勝利は同年5月9日、京都競馬第8競走のナリタボールドで、延べ21頭目であった。

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

森 秀行

森 秀行(もり ひでゆき、1959年3月12日 - )は大阪府出身の日本中央競馬会(JRA)の調教師。栗東トレーニングセンター所属。

戸山為夫厩舎で厩務員、調教助手を経て1993年に調教師免許を取得し、師匠である戸山の死去に伴い同厩舎を引き継いで開業。初出走は同年9月25日の中山競馬第9競走でのミツルマサル(9着)、初勝利は10月24日の東京競馬第9競走でのミツルマサル(延べ7頭目)であった。なお、厩舎引き継ぎに際し、故障休養中であった所属馬ミホノブルボンは転厩した。

無駄を省いた合理的な育成と出走レース選びで数々の名馬を育て上げ、開業2年目でJRA賞(最高勝率調教師・優秀技術調教師)を受賞するほか、2001年には最多勝利調教師になるなど、トップ調教師の一人に挙げられる。また、海外や地方にも積極的に遠征し、1995年(香港国際カップ)でのフジヤマケンザンの勝利は日本調教馬による36年ぶりの海外重賞制覇であった。そして1998年にはモーリス・ド・ゲスト賞をシーキングザパールで勝ち、日本競馬界の長年の悲願であった日本調教馬による初の海外GI制覇を果たす。また、エアシャカールでは二冠を達成している。


[編集] 主な管理馬
レガシーワールド(1993年ジャパンカップ優勝)
フジヤマケンザン(1995年香港国際カップ優勝)
シーキングザパール(1997年NHKマイルカップ、1998年モーリス・ド・ゲスト賞優勝)
アグネスワールド(1999年アベイユ・ド・ロンシャン賞、2000年ジュライカップ優勝)
エアシャカール(2000年皐月賞、菊花賞優勝)
ノボトゥルー(2001年フェブラリーステークス優勝)
ノボジャック(2001年JBCスプリント優勝)
スターキングマン(2003年東京大賞典優勝)

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

保田 隆芳

保田 隆芳(やすだたかよし、1920年3月18日 - )は、元騎手(東京競馬倶楽部、日本競馬会、国営競馬、日本中央競馬会(JRA))、元調教師(日本中央競馬会)。東京都神田出身。戦後の中央競馬における騎手の第一人者の一人で名門・尾形藤吉厩舎の主戦騎手。アメリカより新たな騎乗フォーム(モンキー乗り)を持ち帰り、騎乗法に革命的な変革をもたらした。1995年5月、競馬関係者として初めて勲四等瑞宝章を受章。2004年、騎手顕彰者に選ばれる。息子の保田一隆はJRA調教師(セイウンスカイを管理)。

目次 [非表示]
1 経歴
2 成績
2.1 騎手成績
2.1.1 主な勝ち鞍
2.1.2 受賞
2.2 調教師成績
2.2.1 主な勝ち鞍
2.2.2 受賞



[編集] 経歴
実家は神田の果物問屋で競馬とはまったく無縁な家庭環境に育つ。都内の乗馬クラブに通いはじめると乗馬の虜になり、騎手を志す。1934年、東京競馬場にて名門尾形藤吉厩舎の見習騎手となる。当時の慣習に従い、千葉県の御料牧場で修行を積み、1936年に騎手免許を取得。以後尾形厩舎の主戦騎手として、1938年にアステリモアで阪神優駿牝馬を優勝、翌1939年にテツモンで帝室御賞典(現在の天皇賞(秋))、タイレイで中山4歳牝馬特別を優勝するなど当時の若手騎手としては異例の活躍をした。なお、アステリモアで阪神優駿牝馬を優勝した時、保田は18歳8ヶ月であり、これは現在でも史上最年少でのクラシック制覇となっている(日本中央競馬会(JRA)設立以降は武豊が1989年に菊花賞を優勝した時の19歳8ヶ月が最年少)。

1940年、兵役に就き、1945年に復員。一時日本競馬会の盛岡育成場で働き、1946年に競馬界に復帰した。この兵役が無ければ、1943年に東京優駿などを制した歴史的名牝・クリフジにも騎乗していたであろうともいわれている。

戦後の保田の代表騎乗馬としてはハクチカラが挙げられ(詳細はハクチカラを参照)、この馬で国内では東京優駿、天皇賞・秋、有馬記念を制した。1958年、ハクチカラの海外遠征に同行する形で渡米。米国での実戦ではいいところが無かったが、現地でモンキー乗りと呼ばれる騎乗フォームを習得する機会に恵まれた事が保田にとって大きな転機となる。帰国後の日本においてこの騎乗フォームの先駆者となった保田はリーディング争いを席巻、ついには自身初のリーディングジョッキーの座を獲得する。それを見て保田の騎乗フォームに追随する騎手が続出、モンキー乗りはたちまちに浸透し、まもなく従来の騎乗フォーム(天神乗り)に取って代わった。その後もトップジョッキーとして第一線で活躍し、1968年にはマーチスに騎乗して皐月賞を勝ち、史上初の八大競走全勝利騎手となった(現在は武豊もこの記録を達成している)。なお、この時保田は48歳2ヶ月であり、史上最年長のクラシック勝利騎手となった(1986年に増沢末夫がダイナガリバーで東京優駿を48歳7ヶ月で勝利するまで破られなかった)。また、武豊以前の「盾男」と称され、天皇賞・秋での7勝は今も歴代最多勝利騎手である。

1970年に50歳で騎手を引退し、調教師に転向。尾形厩舎から譲られたメジロアサマ(メジロマックイーンの祖父)が大活躍し、開業1年目で安田記念、函館記念、天皇賞(秋)に勝利した。1976年から1977年に掛けては、天馬トウショウボーイを管理し、皐月賞・有馬記念・宝塚記念に優勝した。

1997年、JRAが調教師の定年制を導入したことに伴い、調教師を引退(厩舎は子息の一隆師が引き継いだ)。2004年、騎手顕彰者として殿堂入りを果たした。


[編集] 成績

[編集] 騎手成績
通算6143戦1295勝


[編集] 主な勝ち鞍
(旧八大競走のみ)

桜花賞(1940年タイレイ、1952年スウヰイスー)
皐月賞(1968年マーチス)
優駿牝馬(1938年アステリモア、1967年ヤマピット)
東京優駿(日本ダービー)(1956年ハクチカラ、1961年ハクショウ)
菊花賞(1953年ハクリョウ、1959年ハククラマ、1963年グレートヨルカ)
天皇賞・春(1954年ハクリョウ、1960年クリペロ、1966年ハクズイコウ)
天皇賞・秋(1939年テツモン、1949年ニューフォード、1950年ヤシマドオター、1951年ハタカゼ、1956年ミツドファーム、1957年ハクチカラ、1966年コレヒデ)
有馬記念 (1957年ハクチカラ、1966年コレヒデ)

[編集] 受賞
年間最多勝利騎手(1959年、1960年、1961年)

[編集] 調教師成績
通算3485戦334勝、重賞17勝


[編集] 主な勝ち鞍
天皇賞(秋)(1970年メジロアサマ)
有馬記念(1976年トウショウボーイ)
皐月賞(1976年トウショウボーイ)
宝塚記念(1977年トウショウボーイ)

[編集] 受賞
調教技術賞(関東)(1974年)
スポーツ功労者 文部科学大臣顕彰(1991年度)

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

山内 研二

山内 研二(やまうち けんじ、1949年6月30日 - )は中央競馬・栗東トレーニングセンター所属の元騎手で現在は調教師。宮崎県出身。


[編集] 経歴
1970年に騎手候補生としてデビュー。1974年に正式に騎手としてデビューした。デビュー当時は関東の松山吉三郎厩舎所属だったが、1975年に関西の田中良平厩舎に所属を変更した。

ただし騎手としては大成できず、15年間の騎手生活で61勝(うち重賞1勝)しか挙げることが出来なかった。その後、1986年に調教師免許を取得した。しかし開業が遅れ1989年にようやく開業すると、2年目の1990年に東京障害特別(秋)をシンクロトロンで制覇し重賞初制覇、さらに優秀調教師賞も受賞した。その後もコンスタントに勝利数を積み重ねていく。そしてダンツシアトルで1995年の宝塚記念を制覇し調教師としてGIを初制覇。さらに翌年イシノサンデーで皐月賞も制した。この頃から、牡牝ともにクラシック路線での活躍馬を多数送り出すようになる。早い段階での活躍馬が多いのは2歳時の夏に積極的に管理馬を出走させるためで、若駒の仕上げには定評のある調教師と呼ばれるようになった。

注目馬こそ送り出すのだが、クラシックにはなかなか手が届かなかった。しかし2000年にチアズグレイスが桜花賞を制覇する。同馬は同世代の勝ち上がり第1号でもあった為、山内の手腕が存分に発揮された馬でもある。この桜花賞は同じく管理していたシルクプリマドンナが3着、サニーサイドアップが5着に入り管理馬が掲示板5頭中3頭を占めた。続く優駿牝馬で、今度はシルクプリマドンナが制覇し、さらに2着に桜花賞馬のチアズグレイスが入り、見事にワンツーを決めた。

2002年にはダンツフレームで宝塚記念を制覇、その後もクラシック路線を中心に多数の活躍馬を送り出している。手腕は前述のとおりで、これまでに10回優秀調教師賞を受賞している。


[編集] 特徴
夏の北海道開催の2歳新馬戦には必ずといっていいほど管理馬を送り出している。これが翌年のクラシック路線において活躍馬を多く送り出している要因でもある。同世代の勝ち上がり第1号だったチアズグレイスが桜花賞を制覇するなど若駒の活躍は顕著である。
主戦は藤田伸二の起用が多い。また安藤勝己や池添謙一などここ一番で勝負強い騎手を起用する傾向にある。武豊の起用は栗東所属調教師にしてはやや控えめであるが、ここ一番になると起用することがある。逆に若手騎手を起用することが少なく、所属の武英智を起用することも少ない。
ピンク色のメンコを所属馬に被せている。このメンコには山内家の家紋が描かれている。非常に目立つ色なのでレース中など遠目からでも見分けられる。管理馬はほとんどがメンコを被っているが、流星が目立つ馬や特徴的な馬には被せない事がある。

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

山本 正司

山本 正司(やまもと しょうじ、1936年11月14日 - )は、日本中央競馬会(JRA)で栗東トレーニングセンターに所属していた元騎手、元調教師である。愛媛県松山市出身。

父の正親が地方競馬の馬主兼騎手だった影響で、高校を中退して騎手を志す。1952年(昭和27年)11月、京都競馬場の武田文吾厩舎に騎手候補として入門。1956年(昭和31年)3月に騎手試験に合格し騎手としてデビュー。

当時の武田厩舎では名騎手の栗田勝が主戦騎手を務めており、常に2番手の位置にあったことに不満を抱き、1960年(昭和35年)に阪神・高橋直厩舎に移籍。山本は後にこのときの行動を「軽率だった。干されても仕方がなかった。」と述懐しているが、武田は山本を咎めることはなく、のちにキーストンで東京優駿(日本ダービー)を制覇したときには「正司は上手く乗った」と祝福した。1963年(昭和38年)には松田由太郎厩舎、1969年(昭和44年)には京都競馬場・中村武志厩舎に移籍した。

騎手時代の主な騎乗馬はキーストン(東京優駿(日本ダービー)、弥生賞、京都杯、金杯)、エプソム(中京記念、スワンステークス)、ダイイチオー(スワンステークス)、タニノソブリン(函館3歳ステークス)、リキリュウシンゲキ(阪神牝馬特別)、フアストバンブー(スワンステークス)など。中でも有名なのがキーストンである。長らくの親友である杉本清アナウンサーによると、キーストンの話をすると今でも山本が涙を流すので話題に出すことがはばかられるという(キーストンと山本を巡る逸話については、キーストンを参照。)。

通算1952戦212勝の成績を残して騎手を引退し、1973年(昭和48年)に調教師免許を取得し、騎手を引退した。1975年(昭和50年)に厩舎を開業。開業した年にCBC賞をオーラミハルで初重賞制覇。1978年(昭和53年)オヤマテスコで桜花賞を勝ち、1984年(昭和59年)にハッピープログレスで安田記念を制覇する。

1986年(昭和61年)に松永幹夫を厩舎の所属騎手に迎えてからは一貫して松永を主戦騎手に据えている。2005年(平成17年)の天皇賞(秋)では、ハッピープログレス以来21年ぶりのJRAGI勝利を松永騎乗のヘヴンリーロマンスで達成した。

2007年2月一杯で引退となるが、愛弟子の松永が調教師試験に合格したので今後は松永に道を譲ることとなる。


[編集] 主な管理馬
オーラミハル(CBC賞)
オヤマテスコ(桜花賞)
ジョーアルバトロス(中京障害ステークス、阪神障害ステークス(秋))
ハッピープログレス(安田記念、スプリンターズステークス、CBC賞2回、京王杯スプリングカップ、阪急杯)
マイシンザン(NHK杯、朝日チャレンジカップ)
ボディーガード(デイリー杯3歳ステークス、阪急杯)
ゼネラリスト(シンザン記念、金鯱賞)
トキオワイルド(京都ジャンプステークス)
カネツフルーヴ(帝王賞)
レギュラーメンバー(ダービーグランプリ、川崎記念、JBCクラシック)
メガスターダム(ラジオたんぱ杯2歳ステークス、中京記念)
ブレイクタイム(京成杯オータムハンデキャップ2回)
ヘヴンリーロマンス(天皇賞(秋)、札幌記念、阪神牝馬ステークス)

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

吉永 正人

吉永 正人(よしなが まさと、1941年10月18日 - 2006年9月11日)は鹿児島県出身の元騎手・調教師。作家の吉永みち子は前夫人。実弟の吉永良人は元騎手、長男の吉永護も騎手。

豪快なレース振りからか、寺山修司のエッセイに頻出した。寺山はミスターシービーの優勝した皐月賞後に死去しており、吉永の絶頂時は見られなかったことになる(しかし寺山は同馬の三冠を予言し、その予言通りとなった)。


[編集] 略歴
1957年(昭和32年)騎手候補となる。
1961年(昭和36年)に松山吉三郎厩舎(東京-美浦・松山康久調教師の父)に所属し、3月11日ダイサンハイツに初騎乗し3着。初勝利は11月25日第10レースでのエビスクラウン。
見習騎手時代には、フェアーウインに2回騎乗して2回勝利を果たしている。
1976年(昭和51年)ミスターシービーの母、シービークインに騎乗。4歳牝馬特別(オークストライアル 現フローラステークス)で優勝。
1977年(昭和52年)シービークインにて初秋ステークス、毎日王冠優勝。
1978年(昭和53年)シービークインにて京王杯スプリングハンデに優勝。
1979年(昭和54年)シービークロスにて金杯(東)、目黒記念、毎日王冠と重賞3勝。
1980年(昭和55年)モンテプリンスでNHK杯優勝。東京優駿(日本ダービー)で一番人気となるもオペックホースの首差2着に惜敗する。菊花賞も2着惜敗。
1982年(昭和57年)京都競馬場第85回天皇賞(春)をモンテプリンスで優勝し最初の八大競走のタイトルを獲得する。同馬で同年の宝塚記念も優勝している。
1982年(昭和57年)11月6日ミスターシービーの東京競馬場の新馬戦に騎乗し2着のヒラタカエイコー以下を抑え優勝。同馬の引退式までに、主戦騎手を務めている。
1983年(昭和58年)皐月賞・日本ダービー・菊花賞の三冠レースを、この年の年度代表馬に選ばれた、ミスターシービーに騎乗し、優勝騎手となっている。
1984年(昭和59年)4月29日に開催された第89回天皇賞(春)をモンテファストで優勝。モンテプリンスとの兄弟制覇を果たしている。
1984年(昭和59年)10月28日に東京競馬場で行われた、第90回天皇賞(秋)は、2000メートルに短縮された最初のレースで、ゼッケン13番を付けたミスターシービーに騎乗し、1分59秒3のレコードタイムで、優勝。ミスターシービーの4冠達成に貢献した。また、自身の天皇賞春秋連覇も果たしたことになる。
1985年(昭和60年)ダイナガリバーの新馬戦に騎乗し2戦目で優勝。以降、馬主サイドの意向で増沢末夫に騎乗が交代される。引退の遠因になったと噂された。
ミスターシービーが、種牡馬となった年の1986年(昭和61年)の3月9日に、25年間送ってきた、騎手生活にピリオドを打ち引退、その後、松山吉三郎調教師の下で、調教助手を務める。
1989年(平成元年)に調教師免許試験に合格と同時に調教師となり、待望の吉永正人厩舎を美浦トレーニングセンターに開業。ヨコハマヨウコを第1号に、多くの管理馬が在厩する厩舎の調教師として管理運営に当たり、1998年には中山大障害(秋)をビクトリーアップで制している。
2006年(平成18年)9月11日、胃癌のため死去。享年64。調教師としての通算成績は3586戦199勝であった。

[編集] 特徴
吉永が騎乗で勝利した馬は、最初は殿かその付近ににわざと下げて第4コーナーから最後の直線で一気に抜け出す戦法が多く、VSOP=ベリー・スペシャル・ワン・パターンと言われた。この吉永独特の戦法は一部ファンからは『最後方強襲戦法』と言われた事がある。シービークロスやミスターシービーも吉永のこの方法で勝利した。但し、吉永は追い込み戦法しか出来ないと言う訳では無く、ミスターシービーの母・シービークインの時は逃げ戦法で3つの重賞を制し、モンテプリンスの時には(柄じゃ無い戦法故か、ダービー2着等と取りこぼしが多いが)模範的な先行抜け出し戦法で結果を出している。


[編集] その他
吉永は騎手時代は50kgを超える体重になっていたことが何度かある(騎手で体重50kgを超えているのは当時でも極めて珍しい)。このため、幾度となく自ら減量を実行していた。

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

エリー・ルルーシュ

エリー・ルルーシュ(Elie Lellouche、1952年3月5日 - )は、フランスの調教師。

騎手として10年間で170勝を挙げた後に、1978年に調教師免許を取得。1979年7月にサンクルー競馬場で初勝利を挙げる。平地競馬・障害競馬の双方で実績を積み上げ、1989年にダニエル・ウィルデンシュタインの専属調教師になり、トップレベルの管理馬を得ることとなる。この時期の代表馬にはエペルヴィエブルーなどがいるが、ウィルデンシュタインとの契約は1993年に解除される。しかし、その後もフランス競馬での活躍は続き、1994年にビッグストーンを輩出した後、1996年には自身の代表管理馬と言えるエリシオで凱旋門賞を制覇した。2001年にウィルデンシュタインがアンドレ・ファーブルと確執の末に決別すると、再びその専属調教師に復帰。その後アクアレリスト・ブライトスカイで2年連続ディアヌ賞を制している。


[編集] 主な管理馬
エペルヴィエブルー(サンクルー大賞、リュパン賞)
ピストレブルー(サンクルー大賞、クリテリウムドサンクルー)
ビッグストーン(サセックスステークス、クイーンエリザベス2世ステークス、イスパーン賞、フォレ賞)
エリシオ(凱旋門賞、サンクルー大賞連覇、ガネー賞、リュパン賞)
アクアレリスト(ディアヌ賞、ヴェルメイユ賞、ガネー賞)
ブライトスカイ(ディアヌ賞、オペラ賞)
ウェスターナー(アスコットゴールドカップ、カドラン賞連覇、ロワイヤルオーク賞連覇)

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

マイケル・ロバーツ

マイケル・ロバーツ(Michael Roberts,1954年5月17日-)は、南アフリカ・イギリスの元騎手で、現在は調教師。 通算3,964勝。日本においては、1998年に史上初めて日本馬でJRAのGI競走を制した外国人騎手として知られる。


[編集] 来歴
1954年、南アフリカに生まれる。生家が牧場だったため、幼少時から乗馬に親しむ機会が多く、体が小さかったということもあり、騎手を目指した。

5年間のジョッキースクール生活を経て、1968年に騎手デビューを果たす。 1972/73年シーズンには、見習い騎手の立場ながらリーディングジョッキーを獲得。 それ以降、1982/83年シーズンまで11シーズン連続でリーディングジョッキーとなった。 特に1981/82年シーズンには、南アフリカ競馬で史上初めてとなる年間200勝を達成するという快挙を成し遂げた。

1986年に、南アフリカの政情不安などの理由から、父祖の地でもあるイギリスに活躍の場を移した。 アレックス・スチュワート厩舎の主戦騎手となり、1988年にはムトトとのコンビでキングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークス等の大レースを制するなど、順調に実績を積み重ねていった。 1992年には、206勝を挙げイギリスのチャンピオンジョッキーに輝くなど、イギリスにおいてもトップジョッキーとしての地位を確立した。

日本との縁も深く、1991年にジャパンカップでテリモンに騎乗するために初来日。 1995年には、短期免許を取得して、本腰を入れて日本での騎乗を開始。 以降、2000年まで連続して短期免許での来日を果たした。 初年度からイブキニュースターでフラワーカップを勝つという活躍を見せた他、同年のジャパンカップをランドで制している。 1998年には、朝日杯3歳ステークスをアドマイヤコジーンで勝利。 その翌日に、ナリタホマレでダービーグランプリを制し、2日連続GI制覇を達成した。

2001年9月に落馬事故を起こし、脊椎を損傷する重傷を負った。復帰を目指したものの叶わず、2002年に現役を引退。 現在は、南アフリカで調教師として活動している。


[編集] 主な騎乗馬
ムトト (キングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークス、エクリプスステークス)

インディアンスキマー (チャンピオンステークス、アイリッシュチャンピオンステークス)

プロルトリ (ダービーイタリアーノ)

ミスティコ (2000ギニー)

バラシア (アイリッシュ2000ギニー)

イントレピディティ (オークス)

オペラハウス (キングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークス、コロネーションカップ)

ランド (ジャパンカップ、ミラノ大賞典)

アドマイヤコジーン (朝日杯3歳ステークス)

ナリタホマレ (ダービーグランプリ)


[編集] エピソード
1998年、ダービーグランプリの騎乗を終えた後、帰りの東北新幹線の車内で同じレースに騎乗した宇都宮の内田利雄騎手と遭遇、二人は意気投合、周囲の座席にいた競馬ファンにビールを振舞うなどして盛り上がった。

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

池江 泰寿

池江 泰寿(いけえ やすとし、1969年1月13日 - )はJRAの調教師。

池江泰郎調教師は父親である。




目次 [非表示]
1 データ
1.1 略歴
1.2 所属場歴
1.3 表彰歴
2 代表管理馬
3 話題の馬
4 関連項目



[編集] データ
出生地:滋賀県
所属場:栗東トレーニングセンター
初出走:2004年3月20日 1回阪神7日目 第5レース、ソニックサーパス(1着)
初勝利:2004年3月20日 1回阪神7日目 第5レース、ソニックサーパス(のべ1頭目)

[編集] 略歴
1993年10月 - 浅見国一厩舎所属の調教厩務員となる。
1993年12月 - 浅見国一厩舎所属の調教助手となる。
1994年6月 - 池江泰郎厩舎に移籍。
2003年3月 - 調教師免許を取得
2004年3月 - 厩舎開業

[編集] 所属場歴
2003年~:栗東トレーニングセンター

[編集] 表彰歴
2006年 最高勝率調教師賞
2006年 優秀調教師賞(関西)
2006年 2006JRA賞(最高勝率調教師)




[編集] 代表管理馬
ドリームジャーニー(2006年朝日杯フューチュリティステークス、2006年度JRA賞最優秀2歳牡馬)

[編集] 話題の馬
池江泰寿厩舎には名物馬主として知られる関口房朗から話題の馬を預託されている。当歳時のセレクトセールにおいて当時の最高落札額となる3億3千万円で落札されたフサイチジャンクはテレビ番組ジャンクSPORTSにちなんで名付けられた。また、当歳時のセレクトセールで4億9000万円で落札されたエアグルーヴの5番目の仔であるザサンデーフサイチ(父:ダンスインザダーク)はやはりテレビ番組THE・サンデーに出演したのが縁で名付けられて池江泰寿厩舎に預託された。

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。