スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

--年--月--日 トラックバック(-) コメント(-)

中野 栄治

中野 栄治(なかの えいじ、1953年3月31日 - )は中央競馬・美浦トレーニングセンター所属の調教師。東京都出身だが生まれは大分県。

目次 [非表示]
1 経歴
2 アイネスフウジンと中野
3 成績
3.1 記録年表
4 関連項目



[編集] 経歴
1971年に美浦の荒木静雄厩舎所属の騎手としてデビュー。1976年のきさらぎ賞(スピリットスワプス)で重賞初勝利。1981年からフリーに。


[編集] アイネスフウジンと中野
騎手時代の代表馬といえば、やはりアイネスフウジンが挙げられる。1989年の朝日杯3歳ステークスで、マルゼンスキーが記録した1分34秒4のレコードタイで勝利した。このため、クラシックレースでも期待されたが、皐月賞では出遅れが響きハクタイセイの3着に敗れる。このため、様々な方面から騎乗に対する批判や馬の距離の限界がささやかれたが、その批判は東京優駿(日本ダービー)で打ち消した。速いペースで最初から逃げ、2分25秒3のレースレコードで逃げ切った。2分25秒台で日本ダービーを勝った馬は過去に居らず、記録が破られるのは実に14年後の事だった。この快挙に東京競馬場に詰めかけた約20万の観客から「ナカノ!ナカノ!」と中野コールがわき起こった。競馬場でGIレースの勝利騎手、勝利馬にコールが起きるのは、この時以来とされている。

当時、中野は年間勝ち星が1桁で、体重管理を怠っており、騎乗する馬がほとんど居ない状況だった。加藤修甫調教師は最後の一花を咲かせてやりたいと思ったのか、「ダービーを勝つ馬に乗ってみないか?」と中野に声をかけ、厩舎のエース格だった中舘英二を差し置いて、アイネスフウジンへの騎乗を依頼したといわれる。

騎乗フォームが美しい騎手としても知られ、自らもそれをアピールポイントにしていた時期もある。

1995年にJRA調教師免許を取得し騎手を引退。通算成績3670戦370勝(うち重賞16勝)。

美浦所属の調教師となる。2001年に管理馬のトロットスターで高松宮記念、スプリンターズステークスを制する。


[編集] 成績
騎手成績 3670戦370勝


[編集] 記録年表
1995年、JRA調教師免許取得。3月開業。初出走は3月10日1回中京4日目3Rエータイムの7着。
 6月9日1回札幌2日目1Rエータイムで延33頭目にして初勝利。

2000年、トロットスターで初重賞(CBC賞)制覇
2001年、トロットスターで高松宮記念、スプリンターズステークスと GI レースを初制覇とともに2勝する。

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

中尾謙太郎

中尾謙太郎(なかお けんたろう、1933年3月6日 - )は、元厩務員(国営競馬、中央競馬)、元調教助手(中央競馬)、元調教師(中央競馬)。実弟には中尾銑治元調教師、中尾正調教師がいる。


[編集] 経歴
1951年に京都競馬場の武田文吾厩舎の厩務員となり、五冠馬シンザンの担当厩務員となった。その後京都競馬場の玉谷敬治厩舎で厩務員・調教助手を務め、1975年に調教師免許を取得。厩務員出身者として初めて中央競馬の調教師となった。2004年に定年を迎え、調教師を引退。


[編集] 調教師成績
通算成績 5007戦477勝(重賞16勝、うちGI1勝)


[編集] 主な管理馬
ファイトガリバー(1996年桜花賞)

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

内藤 繁春

内藤 繁春(ないとう しげはる、1931年1月12日 - )は元騎手、元調教師(中央競馬・栗東トレーニングセンター所属)。愛知県。

目次 [非表示]
1 経歴
2 成績
2.1 記録年表
3 関連項目



[編集] 経歴
1950年に美浦の鈴木信太郎厩舎所属の騎手見習としてデビュー。1952年に騎手となる。初騎乗は1952年9月14日のスターランド(7着)。初勝利は1955年2月20日にリンコンで挙げた。その後1954年に千倉政雄厩舎、1956年に久保道雄厩舎、1958年に日迫清厩舎、1960年に義兄の鈴木和雄厩舎に移籍。1965年、1966年の宝塚記念を連覇する等の活躍をした。

1968年に義兄の鈴木和雄調教師が急死したため、騎手として現役がまだまだ続けられる状況だったが調教師に転身。 1970年に京都牝馬特別をクニノハナで制し重賞初勝利。1979年にはハシハーミットで菊花賞優勝。話題になったのは1991年の有馬記念のダイユウサクである。15頭立ての14番人気で出走し,最後の直線で大本命だったメジロマックイーンを差しきり、さらに従来のレコードを一気に1秒1も縮めるレコード勝ちを見せて、世紀の番狂わせを演じた。

調教師の定年が70歳であったが、騎手には定年が定められていない。そこで2000年には69歳ながら千葉県白井町の競馬学校で行われた新規騎手試験を受験した。若くして転身した騎手にもう一度復帰しようという試みは様々な方面から応援の声を受けた。だが1次試験の学科試験に手こずり、走路試験、障害試験でも馬を止められなかったり指定されたコースを回れない等、約30年振りの騎手再挑戦は厳しいものであった。結局、騎手の試験には不合格となり、調教師を引退した。


[編集] 成績
騎手成績 2926戦307勝(平地 2710戦290勝、障害 216戦17勝)

調教師成績 11201戦893勝(平地 10126戦769勝、障害 1075戦124勝)、重賞25勝


[編集] 記録年表
1968年、JRA調教師免許取得。3月開業。初出走は3月2日2回京都3日目2Rカズミツの5着。
 3月3日2回京都4日目10Rグレースタイバーで延9頭目にして初勝利。

1970年、クニノハナで初重賞(京都牝馬特別)制覇。
1979年、ハシハーミットで菊花賞制覇(当時はグレード制導入前)。
1991年、ダイユウサクで有馬記念制覇。
1996年、エイシンワシントンがスプリンターズステークスに出走、わずか1cm差で制覇ならず。
2000年、調教師の定年を控え、騎手試験を受験するも不合格。引退。

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

戸山為夫

戸山為夫(とやま ためお、1932年1月5日 - 1993年5月29日)は、元騎手(国営競馬、日本中央競馬会(JRA))、元調教師(日本中央競馬会)。京都府京都市出身。1948年、京都市立四條商業高等学校卒業。徹底したハードトレーニングで競走馬を鍛えた異色の調教師として知られる。

目次 [非表示]
1 経歴
1.1 少年時代~騎手時代
1.2 調教師転向
1.3 調教師人生の集大成・ミホノブルボン
1.4 「鍛えて最強馬をつくる」
2 成績
2.1 騎手時代
2.2 調教師時代
2.2.1 主な勝ち鞍
2.2.2 受賞
3 門下生
4 著書



[編集] 経歴

[編集] 少年時代~騎手時代
実家が京都競馬場に近く、近所に競馬関係者が多く住んでいたため、少年時代から頻繁に同競馬場内に立ち寄っていた。場内で当時見習騎手だった小林稔(のちの調教師)に誘われて馬に乗ったのをきっかけに騎手を志した。

高校在学当時から武平三騎手の内弟子となり、高校卒業後の1949年に高橋直三厩舎で騎手候補生となる。1950年、坂口正二厩舎へ。1952年に騎手免許取得。障害競走を中心に騎乗し、アラブ大障害を3度制覇した。


[編集] 調教師転向
騎手としては身長が高く減量に苦しんだこともあって、若くして調教師転向を決意。1964年3月1日に調教師免許を取得して厩舎を開業し同年3月22日管理馬初出走(ヨシミ7着)、同年5月31日にイエロラツキで初勝利(延べ17頭目)。1967年10月15日にアトラスで第2回北九州記念を勝ち初重賞勝利をあげる。1968年7月7日には第35回東京優駿(日本ダービー)をタニノハローモアで初制覇。

開業当初は厩舎の管理馬房数に制限がなく、高額な馬は有力な厩舎が独占する傾向が強かったため、安価な馬をハードトレーニング、具体的にはインターバルトレーニングで鍛えることで対抗しようとした。しかし馬にかける負荷を強めることは故障の危険性を高めることでもあり、多くの馬を故障させつつ試行錯誤を繰り返した。また、馬こそ安価であるもののトレーニングにかかる経費は決して安価ではなく、タニノハローモアのダービー制覇も馬主の谷水信夫が同じ思想の持ち主(スパルタ教育で強い馬を育成する)で無ければ成し遂げれなかったと語っている程である。その後も苦戦を強いられるものの、1985年栗東トレーニングセンターに坂路コースが完成すると、戸山は積極的に活用した。坂路コースにはコーナーが無くウッドチップ(木くず)が敷き詰められている為、馬の脚部にかかる負担を軽減しつつトレーニングを行うことが出来たからである。


[編集] 調教師人生の集大成・ミホノブルボン
坂路コースを使ったトレーニングにより生み出した最高傑作が、1991年に入厩した2歳馬・ミホノブルボンである。ミホノブルボンは血統的にスプリンター(1200m前後のレースが得意な馬)であると見られていたが、戸山は「スタミナ面の不安はハードトトレーニングによって克服可能である」とし、1日3~4回、多いときで1日5回坂路コースをダッシュするメニューを課した。

多くの競馬メディアは戸山の取り組みに懐疑的な見方をしていたが、ミホノブルボンは戸山の思惑通り1600mの朝日杯3歳ステークス、2000mの皐月賞、2400mの東京優駿(日本ダービー)と、適性外であるはずの距離のGIレースを次々と制覇。ついには無敗のままクラシック三冠馬をかけて3000mの菊花賞に出走した。

ミホノブルボンは逃げ馬(先頭に立ってレースを進める馬)であったが、菊花賞にはキョウエイボーガンという逃げ馬も出走していたため、楽に先頭に立つことができない可能性があった。戸山はレース前、騎手の小島貞博に「キョウエイボーガンが競りかけてこようとも最後までペースを落とすな。自分のラップを刻んで、力で押し切れ」と指示していたが、レースではキョウエイボーガンが速いペースで先頭に立ったため、小島は先頭を譲ってレースを進めた。ミホノブルボンには他の馬が先頭に立つとエキサイトする癖があったが、このときもエキサイトしてしまい、結果はライスシャワーの2着。このときの小島の騎乗については「先頭を譲るべきではなかった」、「あれ以上速いペースで進んでいたら2着も危なかった」という2つの見解があるが、戸山の信念に反する騎乗であったことは確かで、レース後戸山は「どうしてミホノブルボンを信じることができなかったのだ」と小島を諭したという。なお、ミホノブルボンは菊花賞の後筋肉痛、さらには骨折を発症して長期休養に入り復帰することなく引退した。


[編集] 「鍛えて最強馬をつくる」
菊花賞の当時戸山は食道癌を患っており、レース後しばらくして入院した。病床で執筆したのが「鍛えて最強馬を作る - ミホノブルボンはなぜ名馬になれたのか」である。ミホノブルボンや調教論について触れるだけでなく自伝的色彩が強い本であったため、執筆当時戸山はすでに死を覚悟していたといわれる。同書は戸山の死から1ヵ月後の1993年6月に出版され、JRA賞馬事文化賞を受賞した。

戸山の死後、ミホノブルボンは再びレースを走ることなく引退した。しかし戸山の管理馬であったレガシーワールドが1993年のジャパンカップを制覇するなどして活躍した。


[編集] 成績

[編集] 騎手時代
通算成績1254戦122勝


[編集] 調教師時代
通算成績6170戦695勝、重賞28勝


[編集] 主な勝ち鞍
東京優駿(日本ダービー)(1968年タニノハローモア、1992年ミホノブルボン)
皐月賞(1992年ミホノブルボン)
朝日杯3歳ステークス(1991年ミホノブルボン)

[編集] 受賞
最多賞金獲得調教師(1992年)
優秀調教師賞(関西)(1992年)
調教技術賞(関西)(1982年)
JRA賞馬事文化賞(1993年)

[編集] 門下生
小島貞博
小谷内秀夫
鶴留明雄
坪憲章
森秀行

[編集] 著書
「鍛えて最強馬をつくる - ミホノブルボンはなぜ名馬になれたのか」(1996年 情報センター出版局 ISBN 4795821526)

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

戸田 博文

戸田 博文(とだ ひろふみ、1963年10月1日 - )はJRAの調教師。

目次 [非表示]
1 データ
1.1 略歴
1.2 所属場歴
1.3 表彰歴
2 代表管理馬
3 関連項目



[編集] データ
出生地:東京都
所属場:美浦トレーニングセンター
初出走:2001年6月24日 2回福島4日目 第4レース、ケイアイミラクル(3着)
初勝利:2001年7月15日 1回新潟2日目 第4レース、ケイアイミラクル(のべ7頭目)

[編集] 略歴
1991年9月 - 高木嘉夫厩舎所属の調教厩務員となる。
1991年11月 - 八木沢勝美所属の調教助手となる。
1995年3月 - 大久保洋吉厩舎に移籍。
2000年3月 - 調教師免許を取得
2001年6月 - 厩舎開業

[編集] 所属場歴
2000年~:美浦トレーニングセンター

[編集] 表彰歴
2006年 優秀調教師賞(関東)




[編集] 代表管理馬
キストゥヘヴン(2006年桜花賞馬)

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

マシュー・ドーソン

マシュー・ドーソン(Mathew Dawson、1820年 - 1898年)は、19世紀のイギリス競馬における調教師である。19世紀のトップトレーナーの1人で、ニューマーケットのヒースハウスで数多くの著名馬を育てた。父ジョージ・ドースン、兄マシュー・ドースン共に調教師で、この一家により50頭のクラシックホースが育てられたという。

主な調教馬に、ソーマンビー(エプソムダービー)、シルヴィオ(エプソムダービー)、セントサイモン、メルトン(エプソムダービー、セントレジャーステークス)、ラダス(2000ギニー、エプソムダービー)、サーヴィスト(エプソムダービー)、ウェラスキズ、ジャネット等。また、名騎手フレッド・アーチャーを育てた人物としても知られる。

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

フェデリコ・テシオ

フェデリコ・テシオ(Federico Tesio、1869年1月17日 - 1954年5月1日)はイタリアの馬産家、馬主、調教師である。当時競馬が始まったばかりのイタリアで、しかも年間僅か10数頭程度の生産馬からリボー、ネアルコ等の世界的名馬を生産した。異名は「ドルメロの魔術師」。


[編集] 生涯
幼少の頃に両親を亡くし、モンカリエリで13年間学んだ後、騎兵隊の少尉として軍役を終えている。その後両親の遺産を受け継ぐと、ギャンブルにおぼれたり、絵を描いてみたり、アマチュア騎手をしてみたりと放蕩生活を送っていた。

遊びほうけていたテシオの転機はリディア・ディ・セラマッツアナとの結婚である。1898年ミラノ北部マジョレ湖の近くにドルメロ牧場という小さな牧場を開いた。このときテシオ29歳であった。

その後数々の名馬を生産しヨーロッパの競馬界で一時代を築く。イタリア国内ではほぼ無敵だったが唯一のライバルにデル・モンテルがいる。デル・モンテルは豊富な資金力を背景に各国から良血馬を次々に導入し、獲得賞金ベースではテシオを上回っていた。また、1929年にテシオに先んじてオルテッロで凱旋門賞を制覇している。これに触発されたのかインチサ・ロケッタのオルジアタ牧場と提携し規模を拡大、その後はドナテッロ、ネアルコ等を生産した。

テシオは画家でもあり、自身の生産馬の絵画を何点か残している。生産馬には画家を初めとした美術家の名前を付けることが多く、初期にはミケランジェロ等の巨匠の名を付けたものの、晩年になるとさすがにネタが尽きたのかリボーはかなり無名の画家である。

テシオの配合方針はかなり複雑で、著書「サラブレッドの生産」にまとめられている。他の大馬産家とは違い自身が生産した名馬をあまり自分では使わず、常に新しい血を求めていた。このため長期にわたって成功を収めることができたという意見もある。ただし例外もおり、リボーなどはカヴァリエレダルピーノからリボーまで一貫してテシオが生産、母もテシオの生産である。自身の最高傑作は生前カヴァリエレダルピーノと周囲に語っていた。ネアルコは真のステイヤーではないとテシオ自身の評価は低く、またリボーの競走は自身が1954年に死亡したため見ることはできなかった。リボーはテシオの悲願だった凱旋門賞を連覇で制覇しており、見ていれば評価は変わっていたかも知れない。

テシオの死後もドルメロ牧場は継続され、マルゲリートヴェルノー、ホガース等の名馬を輩出したが、1985年のティスランを最後の名馬として1992年に閉鎖された。


[編集] 主な生産馬
リボー(Ribot、1952) 16戦16勝、凱旋門賞連覇、キングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークス、ミラノ大賞典、ジョッキークラブ大賞、クリテリウムナツィオナーレ、伊グランクリテリウム、英リーディングサイアー3回
ネアルコ(Nearco、1935) 14戦14勝、パリ大賞典、ダービーイタリアーノ、イタリア大賞、ミラノ大賞典、クリテリウムナツィオナーレ、伊グランクリテリウム、キウスラ賞、パリオリ賞(伊2000ギニーに相当)、英リーディングサイアー3回
ドナテッロ(Donatello、1934 ) 9戦8勝、ダービーイタリアーノ、ミラノ大賞、イタリア大賞、クリテリウムナツィオナーレ、伊グランクリテリウム
ボッティチェッリ(Botticelli、1951) 18戦14勝、アスコットゴールドカップ、イタリアクラシック三冠、イタリア大賞、ミラノ大賞典、クリテリウムナツィオナーレ
テネラニ(Tenerani、1944) 24戦17勝、ダービーイタリアーノ、クイーンエリザベスステークス(現キングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークス)、グッドウッドカップ、イタリア大賞、ミラノ大賞典、セントレジャーイタリアーノ、伊ジョッキークラブ大賞、リボーの父
ベッリー二(Bellini、1937) 23戦15勝、ダービーイタリアーノ、ファッショ賞(セントレジャーイタリアーノ)、ジョッキークラブ大賞、テネラニの父
カヴァリエレダルピーノ(Cavaliere d'Arpino、1926) 5戦5勝、ミラノ大賞典、イタリアリーディングサイアー、ベッリー二の父
ロマネッラ(Romanella、1943) 7戦5勝、クリテリウムナツィオナーレ、リボーの母
ノガラ(Nogara、1928) 18戦14勝、エレナ王妃賞(伊1000ギニーに相当)、パリオリ賞、クリテリウムナツィオナーレ、ネアルコの母
ブラック(Braque、1954) 12戦全勝、ダービーイタリアーノ、イタリア大賞、ミラノ大賞典、セントレジャーイタリアーノ
スコパス(Scopas、1919) 6勝、バーデン大賞、伊ジョッキークラブ大賞
アペル(Apelle、1923) 23戦14勝、ミラノ大賞典、コロネーションカップ、フランスリーディングサイアー
ニッコロデラルカ(Niccolo dell'Arca、1938) 15戦12勝、イタリアクラシック三冠、イタリア大賞、ミラノ大賞典、伊グランクリテリウム
トレヴィサーナ(Trevisana、1945) 22戦17勝、イタリア大賞、セントレジャーイタリアーノ、クリテリウムナツィオナーレ、伊グランクリテリウム
アストルフィーナ(Astolfina、1945) 19戦14勝、エレナ王妃賞、パリオリ賞、伊オークス、ジョッキークラブ大賞、ミラノ大賞典
ドーミエ(Daumier、1948) 15戦13勝、ダービーイタリアーノ、セントレジャーイタリアーノ、ジョッキークラブ大賞、クリテリウムナツィオナーレ、伊グランクリテリウム
他イタリアクラシックホース数十頭。

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

千葉四美

千葉四美(ちば よつみ、1949年7月22日 - )は岩手県出身の元騎手、現調教師。千葉博次調教師(岩手競馬・水沢)の弟。

目次 [非表示]
1 来歴
2 主な受賞歴
3 主な管理馬
4 所属騎手
5 関連項目



[編集] 来歴
1970年5月に騎手デビューし1984年に引退。通算432勝重賞2勝特別1勝の成績だった。1985年4月8日に厩舎を開業し、その日に初勝利を収めた。1991年に厩舎からデビューしたモリユウプリンスが大活躍。トウケイニセイというライバルと幾多のドラマを繰り広げ、数々のタイトルを獲得した。1996年、牝馬のマツリピロリットで不来方賞を制す。1999年、中央未出走馬のトーホウエンペラーが入厩、デビュー1年で桐花賞を制すると、翌年、朱鷺大賞典で統一グレードレース初制覇。デビュー丸2年となる2001年の東京大賞典を制し、晴れてG1トレーナーとなり、NARグランプリ優秀調教師賞の表彰も受けた。翌年トーホウエンペラーで南部杯を制覇、念願の地元でのビッグタイトルの獲得となった。その後もナノテクノロジーで重賞を4勝するなど手腕を発揮している。

トーホウエンペラーがきっかけで(「トーホウ」の冠の)東豊物産とのつながりが強く、毎年何頭もの「トーホウ」の転入馬・新馬が厩舎に入ってくる。


[編集] 主な受賞歴
2001年度 NARグランプリ優秀調教師賞
2001年度 岩手競馬リーディングトレーナー

[編集] 主な管理馬
モリユウプリンス
東北優駿、不来方賞、シアンモア記念、青藍賞(2回)、みちのく大賞典(2回)、北上川大賞典(2回)など
トーホウエンペラー
桐花賞、シアンモア記念、青藍賞2勝、朱鷺大賞典、東京大賞典、名古屋大賞典、南部杯など
ナノテクノロジー 
若駒賞、不来方賞、ウインターカップ、金杯
マツリピロリット 
不来方賞
サイモンピュアー 
2002年度岩手競馬最優秀2歳馬

[編集] 所属騎手
千葉淳志

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

田原 成貴

田原 成貴(たばら せいき 1959年1月15日-)は日本中央競馬会の元騎手、元調教師である。島根県鹿足郡柿木村(現在の吉賀町)出身。デビュー当時は谷八郎厩舎に所属。叔父に競艇選手がおり、また競艇選手の西島義則とは、従兄弟の関係に当たる。そのため、競艇選手になることも一時は考えていた。「競馬界の玉三郎」「天才」などと称された。

目次 [非表示]
1 騎手時代
1.1 GI(級)競走勝利一覧及び当該競走における騎乗馬(年度別)
1.2 年度別成績
2 引き起こしたトラブル
3 調教師時代
4 逮捕・調教師免許剥奪
5 エピソード
6 主な著書および漫画原作
7 CD・レコード
8 外部リンク



[編集] 騎手時代
自身の回想によると、1973年の日本ダービーにおいて嶋田功がタケホープに騎乗しハイセイコーを破ったことから騎手を志した、としている。

1974年馬事公苑長期騎手課程第25期生として入苑、当時の身長は155cm。1年学んだのち谷八郎厩舎に所属、この時には165cmと騎手としてはすでに長身になっていた。ここで兄弟子・田島良保に出会う。その後騎手試験に臨んだが落ち、3年間谷厩舎において修行の日々を送る。

1978年3月4日谷厩舎所属騎手としてデビュー。テンシンニシキで初騎乗、初勝利を挙げる。この年28勝を挙げ新人賞を獲得。翌1979年は63勝を挙げ、全国リーディングジョッキーは1勝差で逃すも関西リーディングジョッキーとなった。現在のGI競走に該当するレースの初勝利は、ダイゼンキングで制した1982年の阪神3歳ステークス。同年には87勝を挙げて2度目の関西リーディングを獲得。

1983年にはリードホーユーで有馬記念を制するとともに、103勝を挙げ、初の全国リーディングジョッキーに輝く。またこの1983年には、2回中京開催において20勝を挙げ1開催20勝の日本記録(当時)を達成した。

1984年に中央競馬にグレード制が施行された後、最初のGI桜花賞をダイアナソロンで制した。この年100勝を挙げ2年連続の全国リーディングジョッキーとなった。 1986年6月21日の中京競馬の競走中に落馬。左腎臓の摘出手術を行なう。 1987年にはマックスビューティで桜花賞、優駿牝馬を制覇。 1990年3月4日阪神競馬場で行なわれたペガサスステークス(アーリントンカップの前身競走、コガネタイフウに騎乗)で落馬し第2・3腰椎および骨盤骨折。これを機にレース数を絞って騎乗することとなる。

1993年の第38回有馬記念でトウカイテイオーに騎乗。1年振りのレースとなる同馬を勝利へと導き、表彰式では涙を見せる。 1994年9月に通算1000勝を達成。以後、マヤノトップガン(菊花賞、有馬記念、宝塚記念、天皇賞(春))、フラワーパーク(高松宮杯、スプリンターズステークス)などでGIレースを制する。 上記、フラワーパーク騎乗の1996年スプリンターズSにおいては、写真判定の結果わずか1cmの着差を制して勝利している。

1998年2月21日2回京都競馬第9競走メガラに騎乗(2着)、これを最後に騎手引退。最終年度における身長は169cm体重は51kgであった。通算成績8648戦1112勝。JRA重賞65勝。


[編集] GI(級)競走勝利一覧及び当該競走における騎乗馬(年度別)
1982年
阪神3歳ステークス - ダイゼンキング
1983年
有馬記念 - リードホーユー
1984年
桜花賞 - ダイアナソロン
安田記念 - ハッピープログレス
1987年
桜花賞 - マックスビューティ
優駿牝馬(オークス) - マックスビューティ
1989年
阪神3歳ステークス - コガネタイフウ
1993年
有馬記念 - トウカイテイオー
1995年
桜花賞 - ワンダーパヒューム
菊花賞 - マヤノトップガン
有馬記念 - マヤノトップガン
1996年
桜花賞 - ファイトガリバー
高松宮杯 - フラワーパーク
宝塚記念 - マヤノトップガン
スプリンターズS - フラワーパーク
1997年
天皇賞(春) - マヤノトップガン
以上JRA・GI(級)16勝


[編集] 年度別成績
年 勝利数 勝率 連対率 備考
1978年 28勝 .112 .205 関西放送記者クラブ賞(最多勝利新人騎手)
1979年 63勝 .142 .257 関西リーディング1位、全国2位
1980年 52勝 .118 .210 通算100勝
1981年 58勝 .131 .243
1982年 87勝 .165 .249 関西リーディング1位、全国2位
1983年 104勝 .152 .302 全国リーディング1位
1984年 100勝 .175 .295 全国リーディング1位
1985年 47勝 .152 .249
1986年 51勝 .180 .313
1987年 58勝 .154 .288
1988年 60勝 .126 .245
1989年 66勝 .127 .238
1990年 38勝 .091 .195
1991年 33勝 .091 .160
1992年 48勝 .110 .204
1993年 61勝 .113 .229
1994年 62勝 .110 .206 通算1000勝
1995年 47勝 .104 .219
1996年 40勝 .103 .191
1997年 8勝 .053 .120
1998年 1勝 .100 .200

以上通算8648戦1112勝、うち障害競走は1978年2戦0勝。重賞65勝。


[編集] 引き起こしたトラブル
騎手として華々しい活躍をする一方、数多くのトラブルも引き起こした。以下、主なトラブルについて記述する。

サルノキング事件
サルノキングの騎乗法について八百長の疑惑がかけられた事件。詳細についてはサルノキング事件を参照。
マックスビューティ降板事件
1987年に田原の騎乗で二冠を制したものの、翌年はスランプに陥り田原が責任を取らされるかたちで降ろされてしまった。田原はそれを不服として伊藤雄二厩舎の競走馬には引退するまで一切騎乗しなくなった。
サンエイサンキュー事件
サンエイサンキューの体調に関する発言を巡り、サンケイスポーツと対立した事件。詳細についてはサンエイサンキュー事件を参照。
スポーツニッポン記者殴打事件
京都競馬場の検量室内において、田原が振るった鞭がスポーツニッポンの記者・橋本全弘の顔面に当たり、重傷を負わせた事件。

[編集] 調教師時代
1999年に厩舎を開業。厩舎に「黒の軍団チーム田原」というニックネームを付けてお揃いのTシャツ等をユニフォームとして活動した。また、厩舎の軽トラのニックネームを公募したり、公式ファンクラブ(「サテライト」と呼んでいた)を結成したり、オリジナルグッズを販売したりするなどユニークな運営で注目された。開業翌年の2000年、フサイチゼノンで弥生賞を制し重賞初制覇。しかし皐月賞へ向けての馬の状態を巡り馬主の関口房朗と対立。同レースの回避を独断で行なった事に関口が激怒し、同馬は森秀行厩舎へ移籍。管理馬の耳に小型発信装置を取り付けて調教するなど奇怪な行動が目立つようになった。

以前は中央競馬の騎手として1000勝以上の勝利を上げると調教師試験の一次試験を免除となるシステムがあり、田原もその制度を利用して調教師免許を取得したが、上記の田原の奇怪な行動などにより「時代の変化により、騎手としての実績のある者が必ずしも調教師として適切な資質があるとは限らなくなった」との理由で調教師一次試験免除のシステムが2003年の試験をもって廃止されるきっかけとなった。これにより当時すでに1000勝をあげていたベテラン騎手河内洋が騎手としての余力が十分残っているにもかかわらず引退することとなった。


[編集] 逮捕・調教師免許剥奪
2001年10月8日、アメリカ同時多発テロ事件直後で厳戒な警備体制の敷かれる中、羽田空港で機内にナイフを持ち込もうとして身柄を拘束される。手荷物検査で覚せい剤の所持が発覚したため、銃刀法違反と覚せい剤取締法違反の現行犯で逮捕。12月21日に調教師免許を剥奪。12月27日に、東京地裁で懲役2年執行猶予3年の判決を受け、控訴せず刑が確定。2002年1月18日、日本中央競馬会は15年間の競馬への関与を禁止(開催中の競馬場、トレーニングセンターへの立入禁止)する処分を発表。

その後は2002年5月には自身の覚せい剤の経験を記した『いかれポンチ』を出版。一方で有料制の競馬予想ホームページを開設。


[編集] エピソード
競馬に限らず音楽活動、漫画家本宮ひろ志の元で漫画原作等の執筆活動などマルチに活躍した。
競艇を好み(親族に競艇関係者がいる影響と思われる)、ファン側の勝負観を学ぶという理由で後輩騎手を連れ出してはびわこ競艇場へよく繰り出していた。
セガの競馬メダルゲームであるSTARHORSE2に実名で登場している。

[編集] 主な著書および漫画原作
「競馬場の風来坊」
「田原成貴七三〇〇日のラスト・メッセージ」
「競馬狂走伝ありゃ馬こりゃ馬」(作画:土田世紀 週刊ヤングマガジン連載)
「勝算」(漫画:本宮ひろ志)
「覚悟」
「的中 -GET-」(作画:のだしげる)
「Jockey」(作画:大島やすいち)
「いかれポンチ」
「法の庭」(作画:能田茂)
「騎手の心理 勝負の一瞬」

[編集] CD・レコード
自由にさせてほしいのさ(B面:ひとりぼっちのセンチメンタル)(1984年)
The Rocks(1996年)

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

田中章博

田中章博(たなかのりひろ、1953年9月29日 - )は中央競馬・栗東トレーニングセンター所属の調教師。兵庫県出身。


[編集] 経歴
1977年栗東・田中良平厩舎で厩務員、調教助手を経て、1991年厩舎を開業。


[編集] 主な管理馬
ファンドリショウリ(1997年中日新聞杯)
ユウトウセイ(1997年京都記念)
デンシャミチ(2005年京王杯2歳ステークス)
ソリッドプラチナム(2006年マーメイドステークス)
モチ(2007年若駒ステークス)

[編集] 所属騎手
柴原央明

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

武田 文吾

武田 文吾(たけだぶんご、1908年2月19日(1907年12月28日説もあり) - 1986年12月3日)は、元騎手(京都競馬倶楽部、阪神競馬倶楽部、日本競馬会、国営競馬)、元調教師(阪神競馬倶楽部、日本競馬会、国営競馬、日本中央競馬会(JRA))。北海道石狩国札幌郡江別村出身。1978年11月3日、勲五等双光旭日章を受章。1986年、正六位叙位。息子の武田博はJRAの元騎手・現調教師。名馬シンザンの鞍上としてクラシック三冠を制した元騎手・元調教師の栗田勝は娘婿。

尾形藤吉とともに「東の尾形、西の武田」と並び称された名調教師。タケブン、ブンテキなどの愛称で親しまれた。五冠馬シンザン・二冠馬コダマ・牝馬二冠馬ミスオンワードなどの名競走馬、また栗田勝・福永洋一などの名騎手を育て、人馬両面において中央競馬、特に関西地区の競馬の発展に大きな足跡を残した。2004年、JRAの調教師顕彰者に選出され、殿堂入りした。

目次 [非表示]
1 経歴
2 成績
2.1 騎手成績
2.1.1 主な勝ち鞍
2.2 調教師成績
2.2.1 主な勝ち鞍
2.2.2 受賞
3 人柄
4 発言集
5 門下生



[編集] 経歴
父親が北海道開拓団に参加したため、北海道で生まれ育つ。10人兄弟の長男だった。父親が放蕩三昧の生活を送るようになったため、伯父(父の兄)のもとで育てられる。学業成績は優秀で小学校卒業後上級学校への進学を希望するが、武田を労働力とみなしていた伯父の反対にあってかなわず、やがて父に連れられ江別へ移住、床屋の見習いを経て1920年に父方の従兄弟、鈴木甚吉(札幌競馬場の騎手兼調教師)に弟子入りし、調教の手伝いなどをするようになる。

まもなく騎手となり、岩見沢競馬場、苫小牧競馬場、倶知安競馬場などでレースに騎乗するようになる。当時の暮らし向きは楽ではなく、将来を悲観して自殺を考えたこともあったという。やがて担当馬ハツカゼを連れ北海道に遠征中だった愛知県の厩務員・川角縫吉と出会い、その勧めで東海地方へ移動。愛知県、静岡県、山梨県などの地方競馬場を転戦した。

1928年、名古屋の馬主・卜部長作に見出され、京都競馬場の鬼頭伊助厩舎に移籍。1930年頃、当時の有力馬主であった西橋外男専属の騎手兼調教師となり鳴尾競馬場へ移籍した。1938年に日本競馬会が「調騎分離」(調教師と騎手の兼業禁止)の制度を実施して以降は、形式的には高橋政次郎厩舎、後に伊藤勝吉厩舎に所属する騎手となった。

1949年秋に騎手を引退し、翌1950年に調教師となった。その年の秋には菊花賞をハイレコードで制し八大競走に初勝利。その後もレダ、ミスオンワード、コダマ、シンザンなどの名馬を管理し、1965年には八大競走を全て制覇する偉業を成し遂げた(この記録を達成した調教師は尾形藤吉と武田のみである)。


[編集] 成績

[編集] 騎手成績
1684戦381勝、重賞80勝


[編集] 主な勝ち鞍
帝室御賞典(1934年春エツフォード、1935年春ゼネラル、1937年春ナンコウ)

[編集] 調教師成績
8897戦1277勝(JRA発足以降)


[編集] 主な勝ち鞍
天皇賞(春)(1953年レダ)
天皇賞(秋)(1965年シンザン)
有馬記念(1965年シンザン)
東京優駿(日本ダービー)(1960年コダマ、1964年シンザン)
菊花賞(1950年ハイレコード、1964年シンザン)
皐月賞(1960年コダマ、1964年シンザン)
桜花賞(1957年ミスオンワード)
優駿牝馬(1957年ミスオンワード)

[編集] 受賞
年間最多勝利調教師(1967年、1972年)
優秀調教師賞等受賞回数19回

[編集] 人柄
武田は筋の通らないことが嫌いで、かつ一徹であった。性格を物語る有名なエピソードがヒサヨシ事件である。なお、ヒサヨシ事件がきっかけとなって武田は大阪帝国大学医学部に勤務する今泉礼治と親交を深め、1979年に毎日杯で弟子の福永洋一が落馬し瀕死の重傷を負った際には、大阪大学医学部長となっていた今泉の協力により福永は一命をとりとめたと言われている。

また、俳人としても知られ、「牧人」の俳号で多くの句を残している。


[編集] 発言集
武田は「一言どころか三言多い」といわれるほど多弁で、また弁が立ったため数々の名言・格言を残した。

「体は馬の背、頭はスタンド」(騎手はレースの際、スタンドから観戦しているようなつもりでレースの流れを分析しつつ騎乗しなければならないという騎乗論)
「コダマは剃刀(カミソリ)の切れ味、シンザンは鉈(ナタ)の切れ味」(自らが手がけた名競走馬2頭の切れ味の違いについて解説した言葉)
「シンザンがそう言ったから」(シンザン引退の理由を尋ねられて)
「シンザンの名を惜しむ」(名馬は体力、気力の衰えを露呈する前に引退させるべきだという持論を表した言葉)
「ゴールは100m先にあると思え」(騎乗論。レースにおける早すぎるスパートを戒める言葉)
「名誉が欲しければ馬は使うな、ゼニが欲しければオラ知らんよ」(人間の欲で馬を過剰に走らせるべきではないというのが持論だった)
「最近の騎手は馬を走らせるのが仕事だから走らせることを覚えたほうがいいと思っている。しかし馬に乗るには並脚の時間を多くして、心と心で通い合うようになっていることが一番必要」(騎手論)

[編集] 門下生
栗田勝
福永洋一
山本正司
松本善登
渡辺栄
鶴留明雄
安田伊佐夫
柴田不二男
古野重孝
武田博
佐藤勇

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

武田 作十郎

武田 作十郎(たけださくじゅうろう、1913年12月29日 - 1993年3月14日)は、元騎手(日本競馬会、国営競馬、日本中央競馬会)、元調教師(日本中央競馬会)。北海道留萌郡出身。

1930年、京都競馬場の美馬信次厩舎にて見習い騎手となり、1932年、騎手免許取得。1943年から兵役につき、1946年競馬に復帰した。1963年、調教師免許を取得。1992年2月、調教師を引退。

門下生には武邦彦、河内洋、武豊など一流騎手が多い。

目次 [非表示]
1 成績
1.1 騎手時代
1.2 調教師時代
1.2.1 受賞



[編集] 成績

[編集] 騎手時代
通算成績702戦60勝(日本中央競馬会発足以降)


[編集] 調教師時代
通算成績7986戦738勝、重賞は1982年の阪神3歳ステークス(優勝馬ダイゼンキング)など6勝。


[編集] 受賞
優秀調教師賞(関西)(1965年、1967年、1986年、1987年)

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

武 宏平

武 宏平(たけ こうへい、1943年4月13日 - )は日本中央競馬会の栗東トレーニングセンターに所属する調教師である。京都府出身。武邦彦調教師は従兄弟、武英智騎手は甥である。


[編集] 経歴
1968年 京都・武平三厩舎の厩務員、調教助手
1969年 京都~栗東・戌亥信義厩舎の調教助手
1972年 栗東・武平三厩舎の調教助手
1976年 栗東TCで厩舎開業

[編集] 主な管理馬
ゴールドウェイ(1985年ニュージーランドトロフィー4歳ステークス)
マルヨプラード(1985年毎日王冠)
フェアダンス(1996年エリザベス女王杯2着)
メルシータカオー(2004年中山大障害)
メルシーエイタイム(2005年、2006年中山大障害2着)
ブルーショットガン(2006年阪急杯)

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

武邦彦

武邦彦(たけ くにひこ、1938年10月20日 - )は日本中央競馬会の元騎手で現在は同会の調教師である。北海道出身(本籍は京都府)。騎手武豊は三男、武幸四郎は四男である。

目次 [非表示]
1 騎手時代
1.1 その他の騎乗馬
2 調教師時代
2.1 その他の管理馬
3 テレビCM出演
4 関連項目
5 脚注



[編集] 騎手時代
1957年京都競馬場武平三(武の親戚である)厩舎で騎手デビュー。1967年にのちにミホノブルボンやタニノハローモアの調教師として知られる戸山為夫厩舎に移籍。1970年には河内洋、そして息子・豊の師匠となる武田作十郎厩舎に移籍。身長が高かったため騎乗するレースは障害競走やアラブ競走がメインだった。

しかし武田作十郎厩舎に移籍後、数多くの大レースを制する。1972年にアチーブスターで第32回桜花賞を勝って初のクラシック制覇[1]。その勢いで7月9日に行なわれた第39回日本ダービーでロングエースに騎乗し優勝。一躍一流騎手としての名を高めた。

1974年の第34回皐月賞ではキタノカチドキに騎乗し優勝。この時、同馬には初めての『シード馬』となった。キタノカチドキは同年の第35回菊花賞も制する。1976年には名馬トウショウボーイに騎乗。初騎乗となった第21回有馬記念ではテンポイントを破り、年度代表馬のタイトルを獲得。翌1977年の第18回宝塚記念も制した。1980年には1000勝を達成。これは関西所属の騎手としては初めての快挙であった。1985年2月24日に引退。JRA通算勝利数は1163であった。

競馬実況の第一人者である杉本清アナウンサーは武邦彦を『名人』と称して実況した。ライバルは福永洋一[2]。ファンからは『タケクニ』・『ターフの魔術師』のあだ名で呼ばれていた。特に騎手の腕が勝負を左右する菊花賞で3勝を挙げた実績がある[3]。

ファンの事を『フアン』と発言し、しばしば『不安』と混同されたりした。


[編集] その他の騎乗馬
タケホープ (1973年の第34回菊花賞に騎乗し優勝。この時は主戦の嶋田功騎手が落馬負傷した為、ピンチヒッターで騎乗)
タカエノカオリ (1974年の第34回桜花賞で優勝)
テンポイント (主戦の鹿戸明騎手が落馬負傷した為、1976年の第43回ダービーで騎乗(レースは故障の為に7着敗退)。後にライバル・トウショウボーイの主戦になった事もあり、同馬への騎乗はこの時限り)
インターグシケン (1978年の第38回菊花賞で優勝)
リードスワロー (1978年の第3回エリザベス女王杯で優勝)
ニホンピロウイナー (河内洋のイメージが強い同馬だが、1983年のきさらぎ賞を制した時は武邦彦騎乗)

[編集] 調教師時代
1987年3月22日中京競馬第5競走でテンバハンカンで初出走(8着)。同年6月21日中京競馬第4競走に出走したサンライズサンで初勝利を挙げる。

1989年にバンブーメモリーで安田記念に優勝(騎手は岡部幸雄)。重賞初制覇がGI競走となった。因みに、バンブーメモリーは三男武豊とのコンビ[4]で1990年にスプリンターズステークス・高松宮杯[5]を制している。

また、1997年に管理するオースミタイクーンでマイラーズカップを制覇。この時は四男の武幸四郎が騎乗し、幸四郎の初勝利が重賞レースという快挙を成し遂げた。更に、2005年にエイシンテンダーでチューリップ賞を制覇。これが騎乗した幸四郎の通算400勝達成となった。

因みに、オリビエ・ペリエが1995年に初来日した際の身元引受人でもあった。

また、1997年の第58回の菊花賞ではトライアルの神戸新聞杯・京都新聞杯の両競走を制したマチカネフクキタルを指し「俺が乗ったら勝つ」と言い、かつての名人と称された騎手としての相馬眼を見事に的中させている。


[編集] その他の管理馬
ショウリノメガミ オリビエ・ペリエとのコンビで1996年の京都牝馬特別(現在の京都牝馬ステークス)を制覇
オースミシャダイ 阪神大賞典、日経賞を制した小柄なステイヤー(1990年)
オースミタイクーン 息子である武幸四郎が騎乗してJRA初勝利と史上最年少重賞初勝利を決めた馬。
メジロベイリー 横山典弘騎乗で2000年の朝日杯3歳ステークスを制覇

[編集] テレビCM出演
サッポロビール 三男・武豊と共に出演(1989年)。因みに、かなりの酒豪として知られ、『移動中の新幹線の窓にミニウイスキーのボトルが並んだ』・『落馬で前歯が折れたにも関わらずストローでビールを飲んでいた[6]』・『ロングエースでダービーを制した後、深夜まで飲んだにも関わらず次の日の早朝にはロングエースの厩に行った』などの伝説がある。

[編集] 関連項目
武豊(息子)
武幸四郎(息子 豊の弟)
増沢末夫(同期生)

[編集] 脚注
^ エリザベス女王杯の前身に当たる、同年のビクトリアカップも制覇している。
^ 福永祐一騎手の父で、杉本は彼を『天才』と称して実況している。
^ 何故か、距離が1ハロン違うだけの天皇賞は最後まで勝てなかった。
^ もう1つの重賞制覇だった1989年のスワンステークスは松永昌博が騎乗している。
^ 現在の高松宮記念(1200m)で、当時は2000mのGII競走であった。
^ 杉本清に『ストローでビールを飲むと不味い』という意味の事を話している。

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

高岡 秀行

高岡 秀行(たかおか ひでゆき Hideyuki Takaoka 1956年4月29日 - )はシンガポールの調教師・元騎手。地方競馬のホッカイドウ競馬からシンガポールのシンガポールターフクラブに移籍した。

ホッカイドウ競馬で騎手として活躍したのち、1992年に調教師に転身。ホッカイドウ競馬では2000年にリーディングトレーナーに輝いている。ホッカイドウ競馬では通算356勝(中央競馬1勝を含む)。

2003年にホッカイドウ競馬からシンガポールターフクラブに移籍、日本生産馬や短期免許で騎乗する日本人騎手などを受け入れている。

2006年はダイアモンドダストでシンガポール初重賞、同馬で国際G1のシンガポール航空インターナショナルカップに初出走しコスモバルクの5着となった。

シンガポールターフクラブには2人目の地方競馬出身調教師として元栃木の仁岸進が2006年から開業している。


[編集] 代表管理馬
タキノスペシャル - 北海道3歳優駿(NARGIII)
ナミ - エーデルワイス賞(NARGIII)
ダイヤモンドダスト(Diamond Dust) - コミッティズプライズ(星G3)
クローリバー - 北海優駿
トウショウラッキー - ヤングチャレンジカップ
※星G3はシンガポールローカルグレード

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

曾和 直榮

曾和 直榮(そわ なおえ、1945年2月3日 - )は園田競馬場の調教師。2001年の兵庫三冠馬ロードバクシン、シンドバッド、グレートステージ、ジョイーレなど有力馬を多数抱える兵庫県の有力な調教師。初出走、初勝利共に1982年8月2日。通算成績は6504戦1423勝(2006年終了時)。

兵庫時代の小牧太は曾和厩舎の所属であり、下手な乗り方をして敗れると馬の前で土下座をさせられたといわれるほど騎乗には厳しく、弟で同じく所属騎手であった小牧毅もなかなか厩舎の有力馬に乗る機会は少なかった。岩田康誠、川原正一と乗り替わったロードバクシンに顕著である。有力馬どころか厩舎所属馬にも騎乗する機会が減少し、半ば住吉厩舎所属となっていた毅は現在花村通春厩舎に移籍している。現在所属している騎手は川原正一、松本幸祐。

川原正一を笠松から受け入れるにあたって、騎手会の内規にある1年間の厩務員生活を約半年で切り上げさせ、4ヶ月の間は1日4鞍に限定されたとはいえ騎乗再開にこぎつけたのは曾和の力といわれている。

JRAの調教師とはかなり太いパイプがあるようで、未勝利馬を移籍させて数戦させた後JRAに送り返すという動きが盛んだった。シャワーパーティーなど特に伊藤雄二厩舎所属の競走馬が多かった。

数々の有力馬を抱え、アラブ時代にはそこそこあった他場遠征をほとんどしなくなったその姿勢は疑問視されることもあるが、確実に賞金を稼ぐという点ではこれほど馬主のことを考える調教師もいないとも言える。

園田競馬場の近くにある、そわ針灸接骨院は曽和直栄の長男が経営している。

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

瀬戸口 勉

瀬戸口 勉(せとぐち つとむ、1936年11月3日 - )は日本の元騎手、元調教師。鹿児島県出身。弟の瀬戸口悟も名古屋競馬・弥富トレーニングセンターに所属する調教師である。

主戦騎手として、平地競走では福永祐一・石橋守の両騎手、障害競走では西谷誠が騎乗することが多かった。

目次 [非表示]
1 騎手として
2 調教師として
3 主な騎乗馬
4 主な管理馬



[編集] 騎手として
1955年、京都の上田武司厩舎に騎手見習いとして入り、1959年、騎手としてデビューする。1963年にはミスマサコで桜花賞を優勝した。1973年に引退、騎手時代の成績は通算2534戦329勝である。

特に障害競走での成績は優れたものがあり、145戦55勝。勝率.379、連対率.641という数字を残している。 京都大障害(秋)は1959年をハルナサン、1960年をシルバオー、1961年には京都大障害(春)、中山大障害(秋)をトサキングで制している。


[編集] 調教師として
1973年に調教師免許を取得し、1975年に栗東トレーニングセンターで開業する。

2005年は54勝をあげ、JRA賞(最多勝利調教師)を受賞する。

2007年2月末をもって定年となった。メイショウサムソン・マルカシェンク・マルカラスカルなどの活躍馬を多く管理しているが定年となれば管理馬全てが転厩となる。一部スポーツ紙では調教師定年制を一定以上の成績を収めた調教師に関しては延長するなどの処置を取ろうという動きがあると報道された。このような超一流の調教師が定年と言う枠組みの中で引退することは日本競馬会に取って大きな損失でもある為、JRAの判断が注目される。

2006年2月で定年になり調教師を引退した北橋修二は親友で、北橋厩舎に所属していた福永祐一を自厩舎でも主戦騎手にしていた。

初出走 1975年3月8日 1回阪神3日目第3競走 ホウシュウエタン 5着
初勝利 1975年5月10日 3回阪神5日目第4競走 ホウシュウリッチ 18戦目

[編集] 主な騎乗馬
トサキング(1961年中山大障害(秋))
ミスマサコ(1963年桜花賞)

[編集] 主な管理馬
オグリキャップ(1988年有馬記念、1989年マイルチャンピオンシップ、1990年安田記念・有馬記念)
オグリローマン(1994年桜花賞)
ゴッドスピード(1999年中山大障害)
エイシンチャンプ(2002年朝日杯フューチュリティステークス)
ネオユニヴァース(2003年皐月賞・東京優駿(日本ダービー))
サニングデール(2004年高松宮記念)
ラインクラフト(2005年桜花賞・NHKマイルカップ)
メイショウサムソン(2006年皐月賞・東京優駿(日本ダービー))
マルカラスカル(2006年中山大障害)

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

角居 勝彦

角居 勝彦(すみい かつひこ、1964年3月28日 - )は日本中央競馬会(JRA)の調教師である。石川県金沢市出身。栗東の中尾謙太郎厩舎、松田国英厩舎で調教助手を務め2000年に開業。


[編集] 経歴
初出走は2001年3月11日の阪神競馬第6競走でのセトノマックイーン(5着)。初勝利は同年3月24日の阪神競馬第9競走でのスカイアンドリュウ(延べ8頭目)であった。翌2002年の東京スポーツ杯2歳ステークスをブルーイレヴンで制して重賞初勝利。

2004年は関屋記念をブルーイレヴンで制するほか、菊花賞をデルタブルースでGI初優勝。通算30勝を挙げ、関西リーディングで10位に入るなど、躍進をみせた。

2005年は管理馬がさらに活躍。シーザリオで優駿牝馬、アメリカンオークス招待ステークスを制するほか、マイルチャンピオンシップそして、香港マイルではハットトリックが優勝。またダートではカネヒキリがジャパンダートダービー、ダービーグランプリ、ジャパンカップダートを優勝するなど国内外芝ダートを問わず活躍馬を管理している。また、2005年度最多賞金獲得調教師賞を受賞。

2006年に入ってからも活躍は止まらず、カネヒキリがフェブラリーステークスを制した。また、ジャパンダートダービーではフレンドシップで調教師として史上初の連覇を成し遂げた。さらにオセアニア最高峰のレース、メルボルンカップでは管理馬のデルタブルース、ポップロックでワン・ツーフィニッシュの快挙を達成した。さらには阪神ジュベナイルフィリーズをウオッカで制した。


[編集] 代表管理馬
GI優勝馬
デルタブルース(菊花賞、メルボルンカップ)
シーザリオ(優駿牝馬、アメリカンオークス招待ステークス)
カネヒキリ(ジャパンダートダービー、ダービーグランプリ、ジャパンカップダート、フェブラリーステークス)
ハットトリック(マイルチャンピオンシップ、香港マイル)
フレンドシップ(ジャパンダートダービー)
ウオッカ(阪神ジュベナイルフィリーズ)
重賞優勝馬
ブルーイレヴン(東京スポーツ杯2歳ステークス、関屋記念)
ディアデラノビア(フローラステークス、京都牝馬ステークス)
ポップロック(目黒記念)
トーセンキャプテン(アーリントンカップ)

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

菅原 泰夫

菅原 泰夫(すがわら やすお、1946年4月1日 - )は日本中央競馬会の元騎手。同会調教師。東京都出身。いわゆる中央場所では余り日の当たることはなく地味な存在であったが、 1975年春の4歳(現3歳)クラシックにてカブラヤオー、テスコガビーに騎乗して4鞍すべてを独占、「空前絶後」と評される。このときカブラヤオーの強引な逃げで「無謀」と非難されたが、他馬を怖がる弱点については同馬が引退するまで口にしなかった。 その後1982年、1983年での菊花賞連覇等、思い切りの良い騎乗で「勝負師」と呼ばれた。通称「泰さん」。1992年に増沢末夫騎手と共に現役を引退した。現在は美浦所属の調教師である。

目次 [非表示]
1 来歴
2 騎手通算成績(中央競馬)
3 その他の騎乗馬
4 エピソード



[編集] 来歴
1964年 茂木為二郎厩舎所属騎手としてデビュー。同期に嶋田功など。
1965年 ダイヤモンドステークスをミハルカスで制し重賞初制覇。この年ミハルカスは、年末の有馬記念で加賀武見を鞍上にシンザンと名勝負を演じている。
1972年 中央競馬(以下同様)通算100勝達成。
1975年 カブラヤオーで皐月賞、東京優駿(日本ダービー)、テスコガビーで桜花賞、優駿牝馬(オークス)を逃げ切り勝ち。
1976年 調教師の茂木の死去により森末之助、本郷一彦厩舎に転厩。
1980年 通算300勝。
1981年 14番人気のミナガワマンナで菊花賞を4馬身差で勝利し、三冠ジョッキーとなる。
1982年 ホリスキーで菊花賞をレコードタイムで制し同レース連覇。
1985年 ダイシンフブキで朝日杯3歳ステークスに勝利。通算500勝。
1990年 通算700勝。
1992年 騎手を引退。

[編集] 騎手通算成績(中央競馬)
通算成績 1着 2着 3着 4着以下 騎乗回数 勝率 連対率
平地 769 657 672 4331 6429 .120 .222
障害 0 1 0 1 2 .000 .500
計 769 658 672 4332 6431 .120 .222

重賞通算36勝

[編集] その他の騎乗馬
ランニングフリー(1989年 アメリカジョッキークラブカップなど)

[編集] エピソード
菊花賞をミナガワマンナで勝ったときに、菅原は当時関西テレビで競馬実況をしていた杉本清アナウンサーと談笑し、「なぜ杉本さんが『淀の坂はゆっくりと下らなければいけない』と強調していたのか、初めてわかった気がする」と語っている。翌年のホリスキー騎乗での菊花賞連覇や1988年の天皇賞・春でのランニングフリー騎乗でタマモクロスの2着にもってきたのも、この時の経験が生きたとも言える。
菅原が主戦騎手であったテスコガビーとカブラヤオーの直接対決が過去に1度あったが、この時は両馬の調教師に騎乗馬を一任。その結果、『一度断ると乗れなくなる可能性がある』所属厩舎で無いテスコガビーに騎乗した(所属厩舎のカブラヤオーには弟弟子・菅野澄男騎手が騎乗)。

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

白井寿昭

白井寿昭 (しらい としあき、1945年1月13日 - )は、日本中央競馬会 (JRA) の調教師である。大阪府出身で、所属は栗東トレーニングセンター。JRAにおける表記では「寿」が使用されているが、正しくは白井壽昭である。


[編集] 経歴
広島県呉市に出まれ、立命館大学経営学部卒業後、1968年に上田武司厩舎で厩務員となる。1973年には同厩舎の調教助手となり、1978年調教師免許取得。

初出走は1979年10月6日の中京競馬第9競走のハルカボシで14着、初勝利は1980年3月23日の阪神競馬第8競走のスズカセイコーで、延べ46頭目であった。

馬の血統論には特にこだわりを持っており、また、管理にあっては馬体重を重要視している。


[編集] 代表管理馬
ダンスパートナー(1995年優駿牝馬、1996年エリザベス女王杯)
スペシャルウィーク(1998年東京優駿、1999年天皇賞(春・秋)・ジャパンカップ)
アグネスデジタル(2000年マイルチャンピオンシップ、2001年マイルチャンピオンシップ南部杯・天皇賞(秋)・香港カップ、2002年フェブラリーステークス、2003年安田記念)
メイショウボーラー(2005年フェブラリーステークス)
フサイチパンドラ(2006年エリザベス女王杯)

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

嶋田 功

嶋田 功(しまだ いさお、1945年11月8日 - )は、日本中央競馬会(JRA)の元騎手、同会調教師。北海道出身。 騎手時代、気管支喘息の持病や減量と戦いながら、たび重なる落馬負傷からカムバックし優駿牝馬(オークス)3連覇を達成。「牝馬の嶋田」、「府中2400のスペシャリスト」と称される(東京優駿(日本ダービー)、優駿牝馬は府中芝コース2400mで施行)。優駿牝馬での通算5勝は今も同レース最多勝利記録である(2位は武豊の3勝)。

元騎手の嶋田潤は実弟である。

目次 [非表示]
1 来歴
2 騎手通算成績(中央競馬)
3 その他の騎乗馬
4 代表管理馬



[編集] 来歴
1964年 稲葉幸夫厩舎所属騎手としてデビュー。同期に菅原泰夫等。
1965年 パナソニックで安田記念を逃げ切り重賞初制覇。この年2年目にして33勝をマーク。
1967年 中央競馬(以下同様)通算100勝達成。
1969年 東京優駿(日本ダービー)で抽せん馬タカツバキに騎乗、単勝支持率44.4%の1番人気となるが、1周目スタンド前で落馬(タカツバキ事件)。嶋田は後にこの時の事を「あの一件は悔しい。その時、俺はこう思った。リーディングジョッキーの地位も要らない。1000勝も要らない。俺は必ずダービーを制してやる」と語っている。
1971年 ナスノカオリ騎乗の桜花賞でクラシック初制覇。ダコタで再びダービーの1番人気となるが、ヒカルイマイの17着(「ダコタは何処だ」の名(?)実況)。
1972年 通算300勝。タケフブキで優駿牝馬(オークス)初制覇。リーディングジョッキー争いのトップを独走するが、9月30日中山競馬でキングムーティに騎乗し落馬。頭蓋骨、肋骨、肩甲骨を骨折し生死を彷徨う。
1973年 2月落馬負傷から復帰し、ナスノチグサでオークス、9番人気のタケホープで翌週のダービーを連勝。ダービー前の追い切り後記者団に、「(断然人気の「怪物」)ハイセイコーが四ツ脚なら、こっちの馬も四ツ脚だよ」のコメントを残す。嶋田はタカツバキ事件のリベンジを成し遂げた。しかしその後調教中の落馬で左足骨折し、菊花賞のタケホープには武邦彦が騎乗、見事優勝できっちりと代打を果たす。
1974年 タケホープで天皇賞(春)制覇。トウコウエルザでオークスを制し同レース3連覇。
1975年 3月の中山競馬で落馬し、左関節内筋断裂で入院。
1976年 テイタニヤに騎乗し桜花賞、オークスの牝馬クラシック2冠を達成。アイフルで天皇賞(秋)を制覇。
1977年 通算500勝達成。
1979年 リンドプルバンでダービーに騎乗、ハイセイコー産駒カツラノハイセイコに鼻差及ばず2着。
1981年 通算700勝達成。テンモンで5度目のオークス制覇。
1982年 ビクトリアクラウンに騎乗しエリザベス女王杯制覇。
1985年 フリーとなる。
1986年 通算900勝達成。
1988年 騎手を引退。
ちなみに嶋田は8大競走のうち5つを制した。あと皐月賞、菊花賞、有馬記念を制せば8大競走完全制覇だった。


[編集] 騎手通算成績(中央競馬)
通算成績 1着 2着 3着 4着以下 騎乗回数 勝率 連対率
平地 951 869 795 4709 7324 .130 .248
障害 0 1 0 2 3 .000 .333
計 951 870 795 4711 7327 .130 .249

重賞通算52勝

[編集] その他の騎乗馬
グリーングラス(1977年 日本経済賞レコード勝ち)
ビンゴガルー(1978年 朝日杯3歳ステークス)
ブルーアレツ(1980年 安田記念)
ホスピタリティ(1982年 セントライト記念など)

[編集] 代表管理馬
アイビートウコウ(ダービー卿チャレンジトロフィー)
アクアビット(ニュージーランドトロフィー4歳ステークス)
ワカタイショウ(中山大障害(秋))
ダイワデュール(東京ハイジャンプ)

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

鹿戸 雄一

鹿戸 雄一(しかと ゆういち、1962年5月23日- )は、日本中央競馬会(JRA)所属の元騎手。現調教師。北海道出身。騎手時代はJRA通算348勝。実父は元騎手で現調教師の鹿戸明。


[編集] 人物
1984年にデビュー。初騎乗は3月4日中山第1競走のキクノファイターで13頭立ての9着。初勝利は10月27日東京第1競走のグレーカスタム。

JRAの重賞勝ち鞍は、1991年9月15日にアングロアラブの重賞、タマツバキ記念をヨドノチカラで勝利。1998年9月26日にマイネルプラチナムで札幌3歳ステークスに勝利。2000年1月9日と2001年1月7日には、ビーマイナカヤマでガーネットステークスを連覇した。ビーマイナカヤマとのコンビではダートグレード競走でも活躍しており、1999年6月10日の北海道スプリントカップと、2001年12月10日のとちぎマロニエカップを勝利している。

2001年12月9日、中京第8競走でグントラムに騎乗し1着、通算300勝を達成した。

昔は美浦の若手騎手のリーダー格として有名だった。

2007年2月15日にJRAの調教師試験に合格。3月1日付で調教師免許が交付される。

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

佐々木修一

佐々木修一(ささき しゅういち、1950年4月10日 - )は岩手県出身の調教師。岩手競馬水沢競馬場所属。1999年1月、JRA東京競馬場で行われたGIフェブラリーステークスで管理馬メイセイオペラが優勝、現在でも地方競馬で唯一のJRAGIを勝利した調教師である。

目次 [非表示]
1 来歴
2 主な受賞歴
3 主な管理馬
4 所属騎手
5 人物・エピソード
6 関連項目



[編集] 来歴
自動車の整備士を目指し集団就職で上京。しかし、理想とはかけ離れた仕事内容で嫌気が差していた。ある日、岩手の馬が走ると聞いて駆けつけた大井競馬場で競馬の世界に魅了され、競馬の世界に飛び込む事を決意。南関東を経て水沢競馬場に戻り厩務員生活を送り41歳で調教師の資格を得て1992年厩舎を開業。厩舎を開業して2年が経った1994年、管理馬で明正商事の所有馬のパラダイスカフェがデビュー、同馬は1995年にかけてデビュー12連勝を記録するなど通算18戦16勝、2着1回、3着1回という脅威的な成績を残した。そして1996年、メイセイオペラがデビュー。途中、不振や大怪我などあったが、説明が不要な程の大活躍。その後もコンスタントに重賞勝ち馬を輩出し、岩手競馬厩舎リーディングでも上位の常連となっている。


[編集] 主な受賞歴
1998年度 NARグランプリ優秀調教師賞
1999年度 NARグランプリ優秀調教師賞
2002年度 岩手競馬リーディングトレーナー
2004年度 岩手競馬リーディングトレーナー

[編集] 主な管理馬
メイセイオペラ
東北ダービー、桐花賞、シアンモア記念2勝、マーキュリーカップ、みちのく大賞典3勝、南部杯、北上川大賞典2勝、フェブラリーステークス、帝王賞など
チュードサンデー
ダイヤモンドカップ、岩鷲賞、東北優駿
メイセイオペレッタ
オパールC
メイセイユウシャ
せきれい賞
テンショウボス
トウケイニセイ記念

[編集] 所属騎手
阿部英俊
渡辺正彦(佐藤浩一厩舎に移籍後引退)

[編集] 人物・エピソード
7月13日放送のNHKプロジェクトXでメイセイオペラのテーマで佐々木修一が取り上げられた。番組中では主役級の扱いであった。また、菅原勲騎手、柴田洋行厩務員とともに登場。当時の思い出を語った。

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

境 勝太郎

境 勝太郎(さかいかつたろう、1920年3月6日 - )は、元騎手(札幌競馬倶楽部、日本競馬会、国営競馬、日本中央競馬会(JRA))、元調教師(日本中央競馬会)。現在は競馬評論家。北海道出身。

目次 [非表示]
1 経歴
2 境勝太郎の馬体診断
3 成績
3.1 騎手成績
3.1.1 主な勝ち鞍
3.2 調教師成績
3.2.1 主な勝ち鞍
3.2.2 受賞
4 門下生



[編集] 経歴
北海道・倶知安競馬場で競馬の競走を観たのをきっかけに騎手を志す。 1935年、札幌競馬場の清水茂次厩舎で見習騎手となり、1936年、同競馬場の川崎敬次郎厩舎で騎手となる。騎手時代は星川泉士厩舎・久保田金造厩舎・二本柳俊夫厩舎など合計10もの厩舎に移籍を繰りかえしつつ、1944年の農商省賞典(皐月賞)(クリヤマト)、1950年の桜花賞(トサミツル)、1953年の天皇賞(秋)(クインナルビー)などに優勝した。ちなみにクインナルビーは後に怪物と称される名馬オグリキャップの五代前の母で、境自身オグリキャップの活躍にクインナルビーを思い出して内心喜び、「良い牝系は必ず後に名馬を産み出す」と語っている(オグリキャップは牝系以外は決して良血と言える血統ではないため)。

1966年、調教師免許を取得し白井にある中山競馬場の分場で厩舎を開業。当時は2400mの追い切りをかけるのが一般的な競走馬の調教手法であったが、白井の調教コースは1周1400mしかなかっため、1000mの追い切りをかける手法を採りいれ、美浦トレーニングセンター開設後もそのスタイルを貫いた。

1973年にスプリンターズステークスをキョウエイグリーンで制し重賞初制覇。1970年代後半以降は「サクラ」の冠名で知られるさくらコマース所有の競走馬によって数々の重賞・GIに優勝した。JRAが調教師の70歳定年制を導入したことに伴い、1997年2月28日、晩年の最高傑作・サクラローレルによる前年の有馬記念優勝を置き土産に調教師を引退した。

馬の蹄及び蹄鉄を重要視しており、「自分の見ていないところでは絶対に削蹄させなかった。どこを何ミリ削るかが成績や故障の原因になる」と著書で述べている。また、サクラローレルが海外遠征で故障した際も「故障の原因の一つは日本から装蹄師を同行させなかったことにある」旨のコメントをしている。

騎手時代には牝馬で勝利を収めることが多かったが、なぜか調教師になってからは逆に牝馬の成績が牡馬に比べて低かった。

人物的には強気の性格の持ち主として知られ、騎手時代から競馬マスコミの前で強気のコメントを連発することが多く、「境ラッパ」の異名をとった。また直言家でもあり、管理馬の騎乗を巡って、小島太や横山典弘といった厩舎の主戦騎手をマスコミの前で批判することも多かった。現在もスポーツニッポン紙上にて、「美浦の黄門様」として歯に衣着せぬ競馬評論を行っている。


[編集] 境勝太郎の馬体診断
 スポーツニッポン紙上で、GIレースの開催週に掲載されているもので、境氏が馬の状態を50点満点で評価するもので、これに、過去の実績、最近の調子などを加味して100点満点の「黄門式採点表」として掲載されている。  大体一番状態のいい馬には48~49点をつけ、50点満点はほとんどみられない。しかし、この馬体診断でトップの評価を得た馬がレース本番で優勝した例はほとんど見られない。これは、実際に馬の状態を見て評価しているわけではなく、撮られた写真から判断しているため、正確に評価するのが難しいためと思われる。実際50点満点の評価を得た馬がレース本番では惨敗しているケースもたびたび見られる。(例 2005年宝塚記念 タップダンスシチー。2005年有馬記念 ゼンノロブロイ)。むしろ評価の低い馬が好走しているほうが多い。

 その最たる例がディープインパクトで、皐月賞時の馬体診断では「貧弱に見える」として43点の低評価で、本命にもしなかったが、レースは快勝であった。その後評価は上がっていったが、逆に馬体重は減っていった。そのためか2006年の有馬記念時の馬体診断では(評価は満点の50点)「馬は目方で走るものではないとこの馬に教えられた」と語った。そして本番のレースも快勝すると、「競馬に携わって70年、こんな完璧な勝利を見たのは初めて 」と最初の時の評価がうそのような最大級の賛辞を送っていた。


[編集] 成績

[編集] 騎手成績

[編集] 主な勝ち鞍
皐月賞(1944年クリヤマト)
桜花賞(1950年トサミツル)
天皇賞(秋)(1953年クインナルビー)

[編集] 調教師成績
通算成績5202戦656勝、重賞53勝


[編集] 主な勝ち鞍
天皇賞(春)(1996年サクラローレル)
天皇賞(秋)(1979年スリージャイアンツ、1986年サクラユタカオー、1995年サクラチトセオー)
東京優駿(日本ダービー)(1988年サクラチヨノオー)
有馬記念(1996年サクラローレル)
エリザベス女王杯(1995年サクラキャンドル)
スプリンターズステークス(1993年サクラバクシンオー、1994年サクラバクシンオー)
朝日杯3歳ステークス(1987年サクラチヨノオー、1988年サクラホクトオー)

[編集] 受賞
優秀調教師賞(関東)(1986年)
調教技術賞(関東)(1971年、1973年、1975年、1978年、1980年)
重賞獲得調教師賞(1986年)
東京記者クラブ賞(1996年)
スポーツ功労者 文部科学大臣顕彰(1995年度)

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。