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サイード・ビン・スルール

サイード・ビン・スルール(Saeed Bin Suroor、1966年10月10日 - )は、UAE、イギリスの調教師である。ドバイ出身。シェイク・モハメド率いる競馬チーム・ゴドルフィンの専属調教師。

1994年に騎馬警官から調教師に転身。1995年にゴドルフィンに抜擢され、専属調教師に。専属初年度からラムタラによりダービー、キングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークス、凱旋門賞を全て制す(日本のみヨーロッパ三冠と呼ぶ)など大活躍を遂げた。

1996年・1998年・1999年にイギリス平地首位調教師に輝いている。


[編集] 主な管理馬
フラッグバード(イタリア共和国大統領賞)
ムーンシェル(オークス)
ラムタラ(エプソムダービー、キングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークス、凱旋門賞)
ソーファクチュアル(ナンソープステークス)
クラシッククリシェ(セントレジャーステークス、ゴールドカップ)
マークオブエスティーム(2000ギニー、クイーンエリザベス2世ステークス)
メダーリー(レーシングポストトロフィー)
デイラミ(エクリプスステークス、マンノウォーステークス、コロネーションカップ、キングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークス、アイリッシュチャンピオンステークス、ブリーダーズカップターフ)
ドバイミレニアム(ジャック・ル・マロワ賞、クイーンエリザベス2世ステークス、ドバイワールドカップ、インターナショナルステークス)
ムタファウェク(セントレジャーステークス、ドイツ賞、カナディアンインターナショナルステークス、コロネーションカップ)
ムータティール(ヴィットリオディカプア賞、ジャック・ル・マロワ賞)
ファンタスティックライト(マンノウォーステークス、香港カップ、タタソールズゴールドカップ、プリンスオブウェールズステークス、アイリッシュチャンピオンステークス、ブリーダーズカップターフ)
クツブ(バイエルンツフトレネン、オイロパ賞、ジョッキークラブ大賞)
カッツィア(1000ギニー、オークス、フラワーボウル招待ハンディキャップ)
ジルバブ(CCAオークス)
マリエンバード(ドイツ賞、バーデン大賞、凱旋門賞)
グランデラ(アイリッシュチャンピオンステークス)
インペリアルジェスチャー(カゼルハンディキャップ、ベルデームステークス)
スラマニ(ドバイシーマクラシック、アーリントンミリオンステークス、ターフクラシック招待ステークス、インターナショナルステークス)
ムーンバラッド(ドバイワールドカップ)
ドバイディスティネーション(クイーンアンステークス)
リーダーシップ(ミラノ大賞)
マムール(バーデン大賞、オイロパ賞)
メゾソプラノ(ヴェルメイユ賞)
リフューズトゥベンド(クイーンアンステークス、エクリプスステークス)
ドワイエン(キングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークス)
クリムゾンパレス(ビヴァリー・D・ステークス)
ハートレイク(安田記念)
エレクトロキューショニスト(ドバイワールドカップ)
ディスクリートキャット(シガーマイルハンデキャップ)

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2007年02月28日 トラックバック(-) コメント(-)

小島 貞博

小島 貞博(こじま さだひろ、1951年11月10日 - )は、JRAの元騎手であり現在は調教師。北海道出身。栗東所属。また、同厩舎初の重賞制覇をもたらした田嶋翔騎手は次女の娘婿に当たる。


[編集] 騎手時代
1971年に栗東の戸山為夫厩舎所属でデビュー。順調に勝ち星を積み重ねると、1978年の京都大障害(秋)で初重賞制覇。1982年には当時春と秋に分かれて施行されていた中山大障害をキングスポイント(名馬テンポイントの全弟)で両方制する等、障害競走で活躍を見せた。だが1986年末に障害戦で落馬して大怪我を負った際に戸山の説得で障害の免許は返上し、平地一本になった。

平地競走の方でも忘れてはならないのがミホノブルボンとのコンビである。同馬にて1991年朝日杯3歳ステークスと、1992年皐月賞、日本ダービーのクラシック二冠を制した。菊花賞は惜しくもライスシャワーの前に2着に屈したが、師匠の戸山為夫の最高の管理馬である。

1994年にはチョウカイキャロルに騎乗し優駿牝馬(オークス)を制覇。前年に師匠を亡くしていた小島は「いい恩返しができました」とレース後の勝利ジョッキーインタビューでコメントしている。

1995年にはタヤスツヨシで2度目の日本ダービー制覇を果たし、史上10人目の日本ダービー2勝騎手となった。

その後2001年に調教師免許を取得し、同年引退。


[編集] 騎手としての成績
平地競走 4389戦427勝
障害競走 333戦68勝
重賞勝利 27勝(GI5勝)

[編集] 調教師時代
2003年に開業。初年度から二桁勝利を挙げる順調な滑り出しを見せると、2005年にはテイエムチュラサンがアイビスサマーダッシュを優勝、初の重賞勝利をもたらす。またテイエムドラゴンが中山大障害を優勝。騎手時代とあわせての優勝となった。 ちなみにテイエムチュラサンの主戦は娘婿の田嶋翔騎手である。

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小島 太

小島 太(こじま ふとし、1947年4月11日 - )は、北海道出身で、日本中央競馬会(JRA)の元騎手、現在は調教師である。2005年に騎手デビューした小島太一は四男(他の子息は調教助手の小島良太など)。騎手としての成績は平地8460戦1018勝・障害16戦6勝である。

目次 [非表示]
1 来歴
1.1 騎手時代の主な勝ち鞍(グレード制導入前のGI級も含む)
2 調教師として
2.1 調教師としての主な勝鞍
3 著書
4 ビデオ



[編集] 来歴
中学生の頃、修学旅行に来ていた高校生に自分が騎手になれるか尋ねた所、『君は大きくなるから無理』と言われてしまう。その発言にショックを受けた太少年は大きくならない為に普段は押入れの中、寝る時は箪笥の引き出しの中と言う生活をした。因みに、この発言をした高校生は後に三冠馬ミスターシービーを管理するトレーナーとして名を馳せる松山康久であった。
1963年、JRAの騎手になるために馬事公苑に入った際に、後に日本を代表する馬主として名を馳せる全演植(後述参照)に偶然見初められた、という逸話がある。全は、まったく面識がなかった太と彼の実父の前で『良い顔だ、勝負師の顔をしている。必ず大物になる』というふうに太を褒めたという。この時の出会いがきっかけで、後に全は太を全面的にバックアップするようになったという。
1966年に馬事公苑14期生として騎手デビュー。同期は安田富男、田島良保、平井雄二などがいる。
1978年5月28日サクラショウリで東京優駿(日本ダービー)に優勝する。
現役時代の名人芸「6頭立てでもインに詰まる」(サクラヤマトオーのディセンバーステークス)「人気を背負った馬で極端な追い込み策をとり、なおかつハナ差で負ける」(サンエイソロンの三冠戦、サクラチトセオーの安田記念)「TVに写らない外ラチから追い込んでくる」(サクラホクトオーの菊花賞)その騎乗は、数多くの競馬ファンを驚愕させた。その為、「フトシは嫌いだ」「ヘタクソ」「猫とフトシは呼んでも来ない」などと罵る競馬ファンも多かったが、その人間的な魅力やここ一番での大胆な騎乗でファンも多かった。
境勝太郎調教師をして「太のバカが良く乗ってくれた」と言わしめたレースが2つある。1986年の天皇賞(秋)では絶対的に不利と言われる府中の大外枠からサクラユタカオーを無理無く先行させて勝った。また1988年の東京優駿(日本ダービー)ではサクラチヨノオーを「一世一代の差し返し」で栄冠に導いた。なお、この際スタンドで見ていた境師が2着を覚悟していた所、「勝ってる」と言われて思わず腰を抜かしたと言うエピソードは有名である。このダービーの騎乗は、後輩の横山典弘をして「太さんでなければ絶対に勝つことは出来なかった」と言わしめている。
現役時代、小島は競馬サークル内では「不良」と言われ、義父である境勝太郎調教師を散々嘆かせた。騎手同士では故・中島啓之(あんちゃん)、田島良保(現調教師)や田原成貴ととりわけ親しく、後輩では横山典弘、四位洋文、武幸四郎らとも親しい。また王貞治や千代の富士と言ったスポーツ選手や北島三郎などの芸能人とも交流があった。なお岡部幸雄とは度々不仲、或いはライバル関係と言われることもあるが、実際にはそのような事実は無かったと後に自著で語っている。小島が調教師に転身して最初のGI勝ちをプレゼントしたのも岡部であった。
さくらコマースの代表である全演植オーナーと親しく、同社の所有馬を中心に騎乗(契約を交わしていたとの記述のある本もある ex.『優駿たちの蹄跡 4巻』)。境勝太郎調教師と共に「サクラ軍団」の代名詞的存在となり、日本で一番ピンクの似合う(さくらコマースの勝負服の色がピンクであることから)騎手と言われた。しかし皐月賞、菊花賞を制したサクラスターオーにはデビュー2戦目までしか騎乗していない。これは当時小島と全との間に、小島が別の馬主とも専属契約を結んでしまったことによる発生した確執があったためと言われている。この冷戦状況を快方へ導く馬となったのがサクラチヨノオーだった。2人の間は実の親子以上の関係とまで言われ、全が亡くなった際も、親族以外で唯一参列を許された。全の死去の8日後の1993年12月19日に行なわれたGI・スプリンターズステークスでは、サクラバクシンオーに騎乗して優勝している。また、1987年12月に実父が亡くなった時にも、6日後のGI・朝日杯3歳ステークスをサクラチヨノオーで制している。
武豊が2002年に東京優駿3勝目を挙げるまで、保田隆芳・大崎昭一・小島貞博と並んで東京優駿最多勝利騎手であった。
スプリンターズステークスはGIになる前も含めると5勝している。

[編集] 騎手時代の主な勝ち鞍(グレード制導入前のGI級も含む)
サクライワイ(1974年スプリンターズステークス、1975年安田記念、スプリンターズステークス)
サクラショウリ(1978年東京優駿、1979年宝塚記念)
ビンゴガルー(1979年皐月賞)
サクラゴッド(1980年スプリンターズステークス)
サクラユタカオー(1986年天皇賞(秋))
サクラチヨノオー(1987年朝日杯3歳ステークス(現朝日杯フューチュリティステークス)、1988年東京優駿)
サクラホクトオー(1988年朝日杯3歳ステークス)
サクラバクシンオー(1993年、1994年スプリンターズステークス)
サクラチトセオー(1995年天皇賞(秋))
サクラキャンドル(1995年エリザベス女王杯)

[編集] 調教師として
1000勝を挙げると1次試験免除となる(現在この制度は無い)のを機に、調教師試験に受験し合格。
1996年に騎手を引退し調教師になる。当時の有力馬サクラローレルの鞍上は横山典弘に託す。
1997年に境勝太郎厩舎を引き継いで厩舎を開業。サクラローレルも自厩舎の馬となる。
2000年5月7日イーグルカフェでNHKマイルカップを制し、調教師として初めてGIのタイトルをとる。
競走馬の海外遠征には積極的で、サクラローレルやイーグルカフェ、マンハッタンカフェで上記の遠征を実現させている。

恩師である境勝太郎師の勇退に伴い、厩舎を引き継ぐ形で厩舎を開業したが、そのすぐ後に、同師の娘であった前夫人と離婚。この際に意見した横山典弘ともその後一時疎遠になった。

サクラローレルの引退式の際、調教師台に自ら上った。しかし素質をもちながら故障を繰り返したサクラローレルをGI馬に仕上げたのは境の手腕によるところが大きく、さらにサクラローレルがGIを2勝した際の管理調教師も境であったため、この行為は物議を醸した。特に大川慶次郎は著書『大川慶次郎が選ぶ「個性派」名馬18頭』(ザマサダ)の中で、「小島太という人間に疑いを持ちました」と痛烈に批判した。





[編集] 調教師としての主な勝鞍
イーグルカフェ(2000年NHKマイルカップ、2002年ジャパンカップダート)
マンハッタンカフェ(2001年菊花賞、有馬記念、2002年天皇賞(春))
サクラプレジデント(2003年札幌記念、2004年中山記念)
プレシャスカフェ(2004年CBC賞)

[編集] 著書
「競馬八方破れ 言いたい放題」(ベストブック)
「馬を走らせる」(光文社)

[編集] ビデオ
「小島太 -我が騎手人生-」(ポニーキャニオン)

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川島 正行

川島 正行(かわしま まさゆき、1947年9月27日 - )は船橋競馬場所属の調教師・元騎手。南関東の調教師リーディングの常連である。彼の管理馬には内田博幸や石崎隆之が騎乗することが多い。

2005年には初めて地方所属馬であるアジュディミツオーをドバイワールドカップに送り出し、同馬で同年12月の東京大賞典を調教師として史上初めて連覇した。また、NARグランプリ2006で5年連続7回目の最優秀調教師賞に輝き、アジュディミツオーも2年連続で年度代表馬及びサラブレッド4歳以上最優秀馬に輝き、フリオーソもサラブレッド2歳最優秀馬に選出された。また、NARグランプリ2006の発表当日に行われた船橋記念をJRAからの転入初戦となった2004年の全日本2歳優駿の勝ち馬プライドキムで制して、地方通算700勝を達成した。

2006年には南関東で年間100勝をあげるという快挙をとげるなど、川島厩舎の所属馬はその圧倒的な強さから、ファンや関係者の間からは畏敬の念を込めて「川島軍団」と呼ばれている。


[編集] 代表管理馬
サプライズパワー(1997年東京王冠賞、東京ダービー、1999年かしわ記念、2000年日本テレビ盃優勝)
ネームヴァリュー(2003年帝王賞優勝)
ナイキアディライト(出川龍一厩舎より転厩、2003年羽田盃、東京ダービー優勝、2004年帝王賞2着)
アジュディミツオー(2004年東京大賞典、2005年東京大賞典、2006年川崎記念、かしわ記念、帝王賞優勝)
シーチャリオット(2005年羽田盃、東京ダービー優勝、2004年全日本2歳優駿2着)
プライドキム(栗東池添兼雄厩舎より転厩、2004年全日本2歳優駿優勝)
フリオーソ(2006年全日本2歳優駿優勝)
トーセンジョウオー(美浦国枝栄厩舎より転厩、中央時代に南関東主催の牝馬限定統一重賞3勝、転入後の2007年エンプレス杯優勝)

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河内 洋

河内 洋(かわち ひろし、1955年2月22日 - )は、大阪府堺市出身のJRA所属の元騎手で現在は調教師。「牝馬の河内」といわれたほど牝馬の騎乗は得意であり、かつて所属していた厩舎が同じであった武邦彦にとって弟弟子存在で、息子の武豊の兄弟子的存在であった。騎手としての成績14915戦2104勝。JRA重賞134勝(JRAのGIおよびGI級勝利は22勝)。騎手時代、「栗東の青年団長」「西のエース」「牝馬の河内」の呼び名を持っていた。

2001年にはナインティナインの岡村隆史演じる新人の岡村騎手の先輩役としてJRAのCMに、またトヨタ自動車のカローラのCMにそれぞれ出演したことがある。

目次 [非表示]
1 来歴
2 代表馬
2.1 騎手時代
2.2 調教師時代
3 外部リンク



[編集] 来歴
1970年 騎手見習いとして武田作十郎調教師に入門。
1974年3月3日 武田作十郎厩舎よりデビュー。初騎乗を初勝利で飾る。
1979年5月20日 優駿牝馬(オークス)をアグネスレディーで勝利し、クラシック初制覇。当時、デビュー6年目のクラシック制覇はありえなかった時代である。同年、ハシハーミットで菊花賞を制した際には、杉本清が「やったり河内、やったり河内」と実況している。
1981年4月29日 カツラノハイセイコで天皇賞(春)制覇
1982年12月26日 サラ系のヒカリデユールで有馬記念制覇
1984年11月18日 ニホンピロウイナーで第1回マイルチャンピオンシップ制覇
1986年11月2日 メジロラモーヌで日本競馬史上初の牝馬三冠達成(桜花賞・優駿牝馬(オークス)・エリザベス女王杯)。このころから牝馬による勝利数が増え「牝馬の河内」と呼ばれるようになる。
2000年5月28日 アグネスフライトで念願の東京優駿(日本ダービー)制覇。(ちなみに、祖母アグネスレディー、母アグネスフローラと三代にわたって河内が騎乗し、いずれもクラシック制覇という偉業を果たした)
2001年7月29日 2000勝達成(岡部幸雄に次いで2番目。当時の最短スピード記録で現在は武豊が抜く。)
2003年2月28日 1000勝達成騎手の調教師第1次試験免除の規定が2002年度の試験をもって廃止になったため、騎手を引退、調教師に転身する。
2005年3月1日 厩舎を開設。3月12日初出走で2着。惜しくも騎手時代のような初出走初勝利は飾れなかった。
2005年4月10日 厩舎開業から15戦目、ミッドナイトトークで初勝利。鞍上は弟弟子の武豊。
2006年5月21日 ヤマニンファビュルで初GI(優駿牝馬)出走し、17着。

[編集] 代表馬

[編集] 騎手時代
アグネスレディー(1979年 優駿牝馬)
ハシハーミット(1979年 菊花賞)
カツラノハイセイコ(1981年 天皇賞・春)
ヒカリデユール(1982年 有馬記念)
ニホンピロウイナー(1984年・1985年 マイルチャンピオンシップ、1985年 安田記念)
メジロラモーヌ(1986年 桜花賞、優駿牝馬、エリザベス女王杯)
サッカーボーイ(1988年 マイルチャンピオンシップ)
アグネスフローラ(1990年 桜花賞)
ダイイチルビー(1991年 安田記念、スプリンターズステークス)
ニシノフラワー(1992年 桜花賞、スプリンターズステークス)
レガシーワールド(1993年 ジャパンカップ)
メジロブライト(1998年 天皇賞・春)
ミッドナイトベット(1998年 香港国際カップ)
アグネスフライト(2000年 東京優駿)
アグネスタキオン(2001年 皐月賞)
牝馬の騎乗に上手いと言われたが、2000年にアグネスフライトによって悲願のダービージョッキーとなった。なお、天皇賞(秋)を勝てば旧八大競走完全制覇だった。

また、オグリキャップがJRAに移籍してきた際、1988年のジャパンカップまで主戦騎手を務めた。オグリキャップの6歳時、陣営が武豊に騎乗を依頼した際、武は河内がオグリキャップから降ろされている経緯もあることから、河内に気を遣い、相談を持ちかけたが、河内は騎乗を勧めたという。河内の物事にこだわらない人柄を示すエピソードと言えよう。

温厚篤実な性格で石橋守、武豊から絶大な信頼を置かれていた。ベテランとなってからは関西の若手騎手の間で「神様」的な存在であり、「河内さんを怒らせるということは余程のことをした時」と言われていたらしい。

寡黙な性格でインタビューにも淡々と応じることから、「職人」とも呼ばれていた。ただしトレセン内では余計なインタビューから逃れるために食堂の厨房内にいることが多かったとも伝わっている。

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郷原 洋行

郷原 洋行(ごうはら ひろゆき、1944年1月21日 - )は鹿児島県出身の元JRA騎手、調教師。

1962年に大久保房松調教師の元で騎手免許取得。同期には中島啓之が、1年先輩には同郷の吉永正人、弟弟子に的場均がいる。騎手時代は、馬を力強く追うことから当時「豪腕」と呼ばれ、ライバルの闘将加賀武見と双璧をなしていた。又、その騎乗スタイル故か加賀とは違い牝馬限定タイトルには縁が無かった。

1993年に騎手を引退し調教師に転向した。

息子の郷原洋司も現在JRA騎手である。

目次 [非表示]
1 騎手成績
1.1 主な騎乗馬
2 調教師成績
2.1 主な管理馬
3 関連項目



[編集] 騎手成績
平地成績 11898戦 1513勝
障害成績 8戦 2勝
通算成績 11906戦 1515勝

[編集] 主な騎乗馬
リユウズキ(1967年 皐月賞など)
オペックホース (1980年 東京優駿(日本ダービー))
イチフジイサミ(1975年 天皇賞(春)など)
プレストウコウ(1977年 菊花賞など)
カシュウチカラ(1979年 天皇賞(春))
スリージャイアンツ(1979年 天皇賞(秋))
ニッポーテイオー(1987年 天皇賞(秋)、マイルチャンピオンシップ、1988年 安田記念など)
ウィナーズサークル(1989年 東京優駿(日本ダービー))

[編集] 調教師成績
(2006年終了時現在)

平地成績 1963戦 78勝
障害成績 182戦 18勝
通算成績 2145戦 96勝

[編集] 主な管理馬
ゴーカイ(2000年、2001年 中山グランドジャンプ連覇)

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栗田 勝

栗田 勝(くりたまさる、1932年3月11日 - 1980年1月16日)は、元騎手(国営競馬、日本中央競馬会(JRA))、元調教師(日本中央競馬会)。息子の栗田伸一はJRAの元騎手、元調教助手。愛知県出身。

関西の名門・武田文吾厩舎の主戦騎手として活躍。五冠馬シンザン、二冠馬コダマ、牝馬二冠馬ミスオンワードなどに乗って活躍した。義父であった武田からの評価はすこぶる高く、天才と呼ばれた福永洋一との比較を求められた際に「洋一は大胆なことをやってのける反面、破れるところがある。栗田はその点緻密だった。馬を手の内に入れるまでが何割も違う。洋一は時代もあって数多く勝ったが、栗田のほうがだいぶ上。」と評した。

騎手引退後は調教師に転進したが、調教師としての結果を残すことなく早世。深酒のし過ぎが死期を早めたと言われている。


[編集] 成績

[編集] 騎手成績
4210戦766勝、重賞51勝


[編集] 主な勝ち鞍
天皇賞(秋)(1965年シンザン)
東京優駿(日本ダービー)(1960年コダマ、1964年シンザン)
菊花賞(1964年シンザン、1965年ダイコーター)
皐月賞(1964年シンザン)
桜花賞(1957年ミスオンワード)
優駿牝馬(1957年ミスオンワード)

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久保田 金造

久保田 金造(くぼたきんぞう、1916年1月25日 - 1991年8月22日)は、元騎手(札幌競馬倶楽部、阪神競馬倶楽部、日本競馬会)、元調教師(日本競馬会、国営競馬、日本中央競馬会(JRA))。調教師顕彰者。北海道札幌市中央区盤渓出身。1929年、北海道琴似尋常小学校高等科卒業。兄の久保田彦之も調教師。

目次 [非表示]
1 経歴
2 幻の記録
3 成績
3.1 騎手成績
3.2 調教師成績
3.2.1 主な勝ち鞍
3.2.2 所属騎手 
3.2.3 受賞



[編集] 経歴
農家の6男として生まれる。実家では農耕馬を飼っていたため、幼少の折から馬に親しんだ。1931年、札幌競馬場にある異母兄・上村大治郎の厩舎にて見習騎手となる。1932年、騎手免許取得。騎乗機会に恵まれなかったため、1934年に鳴尾競馬場の美馬勝一厩舎へ移籍。 1937年、調教師免許を取得。1944年にカイソウで東京優駿競走(日本ダービー)を制した。

太平洋戦争の戦況悪化により競馬開催が一時停止になると北海道へ疎開し、1946年夏の進駐軍競馬に参加した。

1948年、国営競馬の調教師として競馬界に復帰。以後1958年の東京優駿(日本ダービー)をはじめ八大競走9勝、JRA発足以降1000勝を挙げる実績を残した。JRA通算1000勝を達成は1991年7月7日。それから約1ヶ月後の8月22日、心筋梗塞により現役の競馬人として生涯を閉じた。

代表的な管理馬はキタノオー(天皇賞(春)、菊花賞、朝日杯3歳ステークス)トラックオー(天皇賞(秋)、菊花賞)、ニッポーテイオー(天皇賞(秋)、安田記念、マイルチャンピオンシップ)など。

2004年、調教師顕彰者として殿堂入り。


[編集] 幻の記録
調教師として「幻の記録」をいくつか経験している。

代表的なものは1944年に能力検定競走「長距離特殊競走」として行われた現在の菊花賞である。管理馬カイソウは1位で入線したものの、出走馬すべてが走行するコースを間違えたため競走不成立となり、カイソウは失格となってしまった。

また、1948年に優駿競走(日本ダービー)を優勝したミハルオーは実質的には久保田の管理馬であったが、国営競馬への復帰手続きが間に合わなかったため記録上は異母兄・上村大治郎の管理馬とされた。そのため、幻の東京優駿(日本ダービー)2勝目(当時)となった。


[編集] 成績

[編集] 騎手成績
騎手時代は記録がなく不明。


[編集] 調教師成績
10041戦1000勝、重賞46勝。(日本中央競馬会発足以降)


[編集] 主な勝ち鞍
天皇賞(春)(1949年ミハルオー、1957年キタノオー)
天皇賞(秋)(1952年トラックオー1987年ニッポーテイオー)
東京優駿(日本ダービー)(1944年カイソウ、1958年ダイゴホマレ)
菊花賞(1951年トラックオー、1956年キタノオー]、1960年キタノオーザ)
優駿牝馬(1963年アイテイオー)
安田記念(1988年ニッポーテイオー)
マイルチャンピオンシップ(1987年ニッポーテイオー)
朝日杯3歳ステークス(1955年トラックオー、1956年キタノヒカリ、1961年カネツセーキ)
中山大障害(春)(1955年キタノイヅミ)

[編集] 所属騎手 
鹿戸雄一  (~1991) 蛯名信広  


[編集] 受賞
優秀調教師賞(関東)(1988年)
調教技術賞(関東)(1969年)
重賞獲得調教師賞(関東)(1987年)

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金山明彦

金山明彦(かなやま あきひこ、1951年10月16日 - )は、日本の調教師、元騎手。ばんえい競馬史上初めて騎手として通算3000勝を挙げ、「ミスターばんえい」と呼ばれた。

通算成績は19712戦3299勝、重賞88勝。ばんえい競馬最高峰のレースであるばんえい記念を6勝した。1999年に調教師試験に合格し、同年末に騎手を引退した。








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加藤 和宏

加藤 和宏(かとう かずひろ、1956年3月4日 - )は、北海道出身、日本中央競馬会(JRA)・美浦トレーニングセンター所属の元騎手で、現在は調教師である。騎手時代は二本柳俊夫厩舎に所属していた。息子の加藤士津八もJRA所属の騎手である。高崎競馬に所属していた騎手加藤和宏は同姓同名の別人である。

日本ダービーの優勝騎手インタビューで、嬉しさのあまり「ゆかりちゃん(夫人の名)、やったよ!」と叫んだエピソードがある。また、口取り式では息子の士津八を抱っこして写真撮影に望んでいる。


[編集] シリウスシンボリと加藤
シリウスシンボリの馬主であった和田共弘は、クラシックを当初の主戦騎手であった加藤から岡部幸雄への乗り替わりを求めたが、二本柳はこれを拒否。和田オーナーは畠山重則厩舎へ転厩させたが、これが厩務員組合を巻き込む騒動となった。結局、二本柳厩舎に戻り、日本ダービーは加藤が騎乗して優勝したのである。ダービー優勝によって円満解決になると思われたが、この後シリウスシンボリは菊花賞に向かわず約2年にわたって欧州遠征をすることになった。この遠征では加藤は騎乗していない。


[編集] 騎手成績
通算成績
平地(JRA) 6462戦601勝
平地(地方) 83戦7勝
障害 14戦3勝

[編集] 主な勝鞍
ホウヨウボーイ 有馬記念、天皇賞(秋)
アンバーシャダイ 天皇賞(春)
シャダイアイバー 優駿牝馬(オークス)
シリウスシンボリ 東京優駿(日本ダービー)
ホクトベガ エリザベス女王杯
ワールドクリーク 東京大賞典

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エイダン・オブライエン

エイダン・オブライエン(Aidan Patrick O'Brien、1969年 - )は、アイルランドのバリードイルを本拠地とする調教師である。

1969年に農場の息子として誕生。カラ競馬場近くの厩舎で働いた後、アイルランドの名伯楽ジム・ボルジャー調教師の下で調教助手として働き始める。

その後、将来の妻となるアン・マリー・クローリー調教師の調教助手となり1991年に結婚。1993年に調教師免許を取得し、妻の厩舎を引き継ぐ形で調教師生活をスタートさせた。当初は障害調教師として名を挙げ、1993-94シーズンから1997-98シーズンまで5年連続でアイルランド障害リーディング・トレーナーに輝いた。

その腕をクールモアグループの総帥ジョン・マグナー氏に認められ、バリードイルに厩舎を開業。平地競走でも活躍し始める。ガリレオ、ジャイアンツコーズウェイ、ロックオブジブラルタルなど幾多の名馬を育て上げ、1997年から2005年まで9年連続でアイルランド平地リーディング・トレーナーとなる。さらに2001年、2002年にはイギリス平地リーディング・トレーナーに輝いた。


[編集] 主な管理馬
デザートキング(アイリッシュナショナルステークス、アイリッシュ2000ギニー、アイリッシュダービー)
クラシックパーク(アイリッシュ1000ギニー)
キングオブキングズ(アイリッシュナショナルステークス、2000ギニー)
シャトゥーシュ(オークス)
サフロンウォルデン(アイリッシュ2000ギニー)
ファスリエフ(フィーニクスステークス、モルニ賞)
ストラヴィンスキー(ナンソープステークス)
ジャイアンツコーズウェイ(サラマンドル賞、セントジェームズパレスステークス、エクリプスステークス、サセックスステークス、インターナショナルステークス、アイリッシュチャンピオンステークス)
アリストトゥル(レーシングポストトロフィー)
ミナルディ(フィーニクスステークス、ミドルパークステークス)
シーロ(セクレタリアトステークス)
セクォイヤー(モイグレアスタッドステークス)
ベケット(アイリッシュナショナルステークス)
ローズジプシー(プール・デッセ・デ・プーリッシュ)
ブラックミナルーシュ(アイリッシュ2000ギニー)
イマジン(アイリッシュ1000ギニー、オークス)
ガリレオ(ダービー、アイリッシュダービー、キングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークス)
ジョハニスバーグ(フィーニクスステークス、モルニ賞、ミドルパークステークス)
モーツァルト(ナンソープステークス)
クォータームーン(モイグレアスタッドステークス)
ミラン(セントレジャーステークス)
ホークウイング(アイルランドナショナルステークス、エクリプスステークス、ロッキンジステークス)
ロックオブジブラルタル(デュハーストステークス、2000ギニー、セントジェームズパレスステークス、ムーラン・ド・ロンシャン賞)
ショロコフ(イタリアグランクリテリウム)
ハイシャパラル(レーシングポストトロフィー、ダービー、アイリッシュダービー、ブリーダーズカップ・ターフ2回、アイリッシュチャンピオンステークス)
バリンガリー(クリテリウムドサンクルー、カナディアンインターナショナルステークス)
ランドシーア(プール・デッセ・デ・プーラン、ターフマイルステークス)
ソフィスティキャット(コロネーションステークス)
スパルタカス(フィーニクスステークス、グランクリテリウム)
ホールドザットタイガー(ジャン・リュック・ラガルデール賞)
ブラックサムベラミー(イタリアジョッキークラブ大賞、タタソールズ・ゴールドカップ)
ブライアンボル(レーシングポストトロフィー、セントレジャーステークス)
アルベルトジャコメッティ(クリテリウムドサンクルー)
イエスタデイ(アイリッシュ1000ギニー)
ワンクールキャット(フィーニクスステークス、アイルランドナショナルステークス)
ネックレス(モイグレアスタッドステークス)
パワーズコート(タタソールズ・ゴールドカップ、アーリントンミリオン)
アドヴァラレム(ミドルパークステークス)
オラトリオ(ジャン・リュック・ラガルデール賞、エクリプスステークス、アイリッシュチャンピオンステークス)
フットステップスインザサンド(2000ギニー)
ヴァージニアウォーターズ(1000ギニー)
イェーツ(コロネーションカップ、ゴールドカップ)
スコーピオン(パリ大賞、セントレジャーステークス)
ジョージワシントン(フィーニクスステークス、アイルランドナショナルステークス、2000ギニー)
ランプルスティルトスキン(モイグレアスタッドステークス、マルセル・ブーサック賞)
ホレーショネルソン(ジャン・リュック・ラガルデール賞)
オーシールールズ(プール・デッセ・デ・プーラン)
アレクサンドローヴァ(オークス、ヨークシャーオークス)
アドヴァラレム(クイーンアンステークス)
ディラントーマス(アイリッシュダービー)

2007年02月28日 トラックバック(-) コメント(-)

ヴィンセント・オブライエン

ヴィンセント・オブライエン(Michael Vincent O'Brien、1917年4月9日 - )は、アイルランドの元調教師。英ダービー6勝など、数々のレースを制した。2003年には、英レーシング・ポスト紙のRacing Great 100で1位に選出され、競馬界において最も偉大な調教師の一人である。英ダービー馬セクレトの調教師だったデイヴィッド・オブライエンは実の息子。なお、現在世界一の調教師の一人とされるエイダン・オブライエンとは血縁関係はない。

アイルランドのコーク州に生まれたヴィンセント・オブライエンは、まず障害競走の調教師として頭角を表す。グランドナショナルを3度勝ち、さらにコテージレーク(Cottage Rake)という馬でチェルトナムゴールドカップを3連覇する。1951年、ティペラリー州に厩舎を開設し、平地競走に進出する。1962年にラークスパー(Larkspur)で英ダービーを初めて勝つと、その後ニジンスキーやザミンストレルなどで6度制した。中でもニジンスキーではレスター・ピゴット騎手とのコンビでイギリスクラシック三冠を制した。ピゴットは、1960年代から1970年代にかけてヴィンセント・オブライエンの管理馬で多くの大レースを制した。1970年代にはロバート・サングスターとヴィンセント・オブライエンの娘婿であるジョン・マグナーと共にクールモア・スタッドやバリードイル厩舎を設立し、成功を収める。この成功はノーザンダンサー系の競走馬の活躍によるところが大きい。

ヴィンセント・オブライエンの調教師引退後、バリードイル厩舎はエイダン・オブライエンに引き継がれた。


[編集] 主な管理馬
サーアイヴァー(英ダービー、2000ギニー)
ニジンスキー(イギリスクラシック三冠、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス、アイリッシュダービー)
ザミンストレル(英ダービー、キングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークス、アイリッシュダービー)
アレッジド(凱旋門賞2回)
エルグランセニョール(2000ギニー、アイリッシュダービー)
サドラーズウェルズ(アイリッシュ2000ギニー)

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音無 秀孝

音無 秀孝(おとなしひでたか、1954年6月10日 - )は、日本中央競馬会栗東トレーニングセンター所属の調教師であり、元栗東所属騎手である。宮崎県出身。

目次 [非表示]
1 来歴
2 特徴
3 エピソード
4 成績表
4.1 主な管理馬



[編集] 来歴
中学校を卒業した後、大阪のレストランでコックとして3年間働いていたが、この間に競馬ファンとなり、自身も騎手として競馬界に飛び込むことを決意する。1973年から騎手見習いとして騎乗を開始、1979年からは田中良平厩舎に所属し正式な騎手となった。1985年の優駿牝馬をノアノハコブネで制すなど、1993年の騎手引退までに1212戦で84勝を挙げている。引退後2年間は田中章博厩舎で調教助手を務め、1995年に厩舎を開業する。1995年6月24日に中京競馬第12競走でキーペガサスが管理馬として初出走、初勝利は厩舎10戦目であった同年7月23日の小倉競馬第11競走北九州記念をイナズマタカオーで飾っている。


[編集] 特徴
2000年頃から成績が飛躍的に向上し、現在では毎年のように調教師リーディングの上位を賑わす存在である。これには、リンカーンなどに代表される近藤英子所有の素質馬を管理し始めたことや、条件戦での積極的な関東遠征、東田幸男調教助手を始めとする厩舎スタッフらの手腕とチームワークなどが理由として挙げられる。

また坂路主体の調教も厩舎の特徴であり、西高東低の現状に於いて、これが前述の関東遠征での好結果に繋がっているとも考えられる。

その他に、管理馬がレースでの人気の有無に拘らず2着・3着を拾うケースが目立つこと(この事に関しては音無も自虐的に語ることがある)や、ヘネシーやジェリなどのまだ馴染み薄い種牡馬の産駒が活躍していることも特徴だろう。

2003年より厩舎所属騎手として生野賢一がいるが、重賞を含む上級条件競走においては、関西では武豊、関東では柴田善臣が騎乗することが多い。ちなみに熱心な競馬ファンの間では「関東で柴田を乗せてきたら買い」とも言われるほどの複勝率を誇る。


[編集] エピソード
オモシロイ、イヤダイヤダなどの珍名馬が所属することでも有名な音無厩舎だが、それらを所有する馬主小田切有一との関係は深い。音無の騎手時代の代表騎乗馬ノアノハコブネ、1980年の初勝利時の騎乗馬ヒノサトも小田切の所有馬であった。当時、小田切は田中良平厩舎にその所有馬の多くを預けていたこともあり、音無は若い頃から氏に可愛がられていた(現在も"秀ちゃん"と呼ばれている)。その縁と信頼関係は、調教師となってからのエガオヲミセテやワナでの重賞勝利や、オレハマッテルゼでの高松宮記念優勝による悲願のGI初制覇へと結実している。

[編集] 成績表
年 勝利数・連対率 表彰歴
1995年    1勝 (.035)
1996年    8勝 (.125)
1997年   16勝 (.144)
1998年   17勝 (.171)
1999年   15勝 (.170)
2000年   18勝 (.172)
2001年   16勝 (.178)
2002年   34勝 (.191)
2003年   26勝 (.199)
2004年   48勝 (.341) JRA賞(優秀技術調教師)
優秀調教師賞(関西)
2005年   48勝 (.291) 優秀調教師賞(関西)
2006年   41勝 (.286) 優秀調教師賞(関西)


[編集] 主な管理馬
括弧内は重賞の勝ち鞍

リンカーン(2004年阪神大賞典、2005年京都大賞典、2006年日経賞)
カンパニー(2006年大阪杯、2005年京阪杯)
イナズマタカオー(1995年北九州記念、1996年中京記念)
エガオヲミセテ(1998年阪神牝馬特別、1999年マイラーズカップ)
ユーセイトップラン(1999年アルゼンチン共和国杯、1998年・2000年ダイヤモンドステークス)
トシザブイ(2002年・2003年目黒記念)
オレハマッテルゼ(2006年高松宮記念、2006年京王杯スプリングカップ)
サンライズバッカス(2007年フェブラリーステークス、2005年武蔵野ステークス)

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尾形藤吉

尾形藤吉(おがたとうきち 1892年3月2日 - 1981年9月27日)は、元騎手、元調教師(東京競馬倶楽部、日本競馬会、国営競馬、日本中央競馬会(JRA))。北海道有珠郡伊達町出身。旧姓は大河原で、1909年に尾形姓。1911年から1946年まで「尾形景造」を名乗る。

近代日本競馬における調教師の草分け的な存在で、「大尾形」と称された。(現在ある、一厩舎あたりの馬房制限設定前の自由競争時代に達成された数字ではあるが)調教師成績通算1670勝はJRA発足以後の最多勝利数である。そのほか最多勝利調教師12回獲得、日本ダービー8勝、八大競走にすべて勝利し通算39勝するなど、日本競馬史に輝く実績を残した。騎手としても1918年から1935年まで帝室御賞典に13回優勝するなど活躍した。

人材育成にも力を注ぎ、3人の顕彰者(保田隆芳、野平祐二、松山吉三郎)をはじめ、門下生から多数の優秀な人材を輩出した。現在も尾形の弟子筋にあたる多数のホースマンが中央競馬において活躍している。息子の尾形盛次、孫の尾形充弘はJRAの調教師。

1964年、黄綬褒章を受賞。1966年、勲五等双光旭日章を受賞。1981年、正六位叙位。2004年、調教師顕彰者として日本中央競馬会殿堂入り。

目次 [非表示]
1 来歴
2 代表管理馬
2.1 皐月賞
2.2 東京優駿(日本ダービー)
2.3 菊花賞
2.4 桜花賞
2.5 優駿牝馬(オークス)
2.6 天皇賞
2.7 有馬記念
3 成績
3.1 騎手成績
3.2 調教師成績
3.2.1 受賞
4 主な門下生
5 著書



[編集] 来歴
1907年、新冠御料牧場にて馬術見習生となる。1908年、同牧場を訪れた菅野小次郎に見出され、弟子入り。1911年、多賀厩舎にて騎手となる。同年、調教管理者資格取得(当時は、騎手と調教師の区分が明確でなかった)。

同年6月、目黒競馬で落馬事故を経験した際に姓名判断を受け、「尾形景造」に改名。以後、実名での登録が義務づけられる1946年までこの名を通名とした。

1916年に厩舎開業。ただし1936年まで騎手業も続けた。

1927年5月1日、目黒競馬場において帝室御賞典を管理馬アストラル(東京優駿(日本ダービー)優勝馬カブトヤマ・ガヴァナーの母)で優勝。 1934年4月22日、東京優駿大競走において、管理馬フレーモア、テーモア、デンコウで1~3着を独占するという偉業を達成した。1943年、歴史的名牝馬クリフジで変則三冠(東京優駿競走・阪神優駿牝馬・京都農商省典4歳呼馬)を制覇。

その後太平洋戦争の戦況が悪化し競馬開催が一時停止されたため、盛岡市近郊の巣子に疎開。1946年の競馬再開と同時に復帰した。

1958年管理馬であるハクチカラをアメリカに国産馬として初の海外遠征させる(主戦騎手である保田隆芳も遠征)
1959年には調教師の年間勝利数として中央競馬史上最多の121勝をマーク。
1963年管理馬であるメイズイ(皐月賞・東京優駿)・グレートヨルカ(菊花賞)によって、調教師としてクラシック三冠を制す。
1964年6月3日黄綬褒章を受章。
1966年当時優勝馬が再出走できなかった時代の天皇賞において春(ハクズイコウ)秋(コレヒデ)とも管理馬が優勝する
1966年勲五等双光旭日章を受章。
1981年9月27日死去。正六位に叙位される。死去した日に管理馬メジロティターン(後の天皇賞馬、メジロマックイーンの父)がセントライト記念に優勝する。
2004年中央競馬発足50周年にあたり功労者として顕彰(調教師顕彰者)され、殿堂入り。
2005年4月24日殿堂入りを記念し、東京競馬場にある競馬博物館にて胸像のレリーフが展示が開始される。

[編集] 代表管理馬
八大競走優勝馬のみ(天皇賞は日本競馬会発足によって年2回施行となった1937年以降)


[編集] 皐月賞
1952年クリノハナ
1963年メイズイ
1969年ワイルドモア

[編集] 東京優駿(日本ダービー)
1934年フレーモア
1936年トクマサ
1943年クリフジ
1952年クリノハナ
1956年ハクチカラ
1961年ハクショウ
1963年メイズイ
1977年ラッキールーラ

[編集] 菊花賞
1938年テツモン(初代優勝馬)
1943年クリフジ
1953年ハクリョウ
1959年ハククラマ
1963年グレートヨルカ

[編集] 桜花賞
1940年タイレイ
1944年ヤマイワイ
1949年ヤシマドオター
1953年カンセイ
1954年ヤマイチ

[編集] 優駿牝馬(オークス)
1938年アステリモア(初代優勝馬)
1942年ロツクステーツ
1943年クリフジ
1954年ヤマイチ
1969年シャダイターキン

[編集] 天皇賞
1939年秋 テツモン
1941年秋 エステイツ
1950年秋 ヤシマドオター
1951年秋 ハタカゼ
1954年春 ハクリョウ
1956年秋 ミツドファー
1957年秋 ハクチカラ
1960年春 クリペロ
1963年春 コレヒサ
1966年春 ハクズイコウ
1966年秋 コレヒデ

[編集] 有馬記念
1957年ハクチカラ
1966年コレヒデ

[編集] 成績

[編集] 騎手成績
(資料で明らかになる限りにおいては)373戦148勝


[編集] 調教師成績
通算成績9390戦1670勝(JRA発足以後)


[編集] 受賞
年間最多勝利調教師(1955年~1960年、1962年、1964年~1966年、1968年、1969年)
優秀調教師賞等受賞回数18回

[編集] 主な門下生
大久保亀吉
保田隆芳
野平祐二
松山吉三郎
伊藤修司
伊藤正徳 (調教師)
美馬信次
岩佐宗五郎
二本柳勇
古賀嘉蔵
伊藤正四郎
真崎亘
八木沢勝美
山倉精一

[編集] 著書
「競馬ひとすじ-私と馬の60年史」(徳間書店)

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大久保正陽

大久保正陽(おおくぼ まさひろ、1935年8月23日 - )は、日本の元騎手(日本中央競馬会)、元調教師(日本中央競馬会)。父の大久保亀治(亀吉)は、尾形藤吉門下の元騎手・元調教師。祖父の大久保福松は函館大経の弟子。弟の大久保光康も元騎手・元調教師(日本中央競馬会)。子の大久保龍志は現在も開業中の調教師(日本中央競馬会)。


[編集] 経歴
騎手見習い、騎手候補生を経て1957年に父・大久保亀治の厩舎所属の騎手となる。なおこの間、夜は大学に通いながら騎乗を続ける生活を両立させ、学士号を取得している。

騎手を引退した後、1970年から同厩舎の調教助手となり、1971年に調教師免許を取得。2006年2月28日に定年により調教師を引退。

調教師としては、時に競馬における常識に挑戦するような競走馬の使い方をすることで知られ、史上初の「障害帰りのGI馬」となったメジロパーマーや、「中央競馬の全競馬場でレースに出走する」という珍記録を達成したヤマノシラギクを管理したことで有名。また三冠馬・ナリタブライアンに対しても、6歳(旧馬齢)時に天皇賞(春)(3200m)の次走として高松宮杯(1200m)に出走させたことから、距離適性などの面からマスコミとの間で論争を呼んだ(詳しくはナリタブライアン#調教師とマスコミとの対立を参照)。


[編集] 調教師時代の成績
通算7006戦596勝、重賞50勝(うち八大競走およびGI10勝)。

主な勝ち鞍
天皇賞(春)(1976年エリモジョージ)
有馬記念(1992年メジロパーマー、1994年ナリタブライアン、1997年シルクジャスティス)
東京優駿(1994年ナリタブライアン)
菊花賞(1994年ナリタブライアン)
皐月賞(1993年ナリタタイシン、1994年ナリタブライアン)
宝塚記念(1978年エリモジョージ、1992年メジロパーマー)
朝日杯3歳ステークス(1993年ナリタブライアン)

[編集] 主な管理馬
ナリタブライアン
エリモジョージ
ヤマノシラギク
ナリタタイシン
シルクジャスティス

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大久保 房松

大久保 房松(おおくぼふさまつ、1897年11月6日 - 1997年8月29日)は、元騎手(東京競馬倶楽部、日本競馬会)、元調教師(東京競馬倶楽部、日本競馬会、国営競馬、日本中央競馬会(JRA))。青森県八戸市出身。北海道湯の川尋常高等小学校尋常科卒業。1979年、黄綬褒章を受章。子の大久保勝之はJRA調教師。


第二回東京優駿大競走
1位入選が大久保房松とカブトヤマ目次 [非表示]
1 経歴
2 成績
2.1 騎手成績
2.1.1 主な勝ち鞍
2.2 調教師成績
2.2.1 主な勝ち鞍
2.2.2 受賞
3 門下生



[編集] 経歴
父親が失業したため、少年時代から牧場で働き家計を支える。牧場の馬に乗ってしばしば函館競馬場の敷地内に入り込んでいたところを函館大次(函館大経の弟子)に見出される。1912年5月に弟子入り。同年9月、騎手免許を取得。1922年、騎手兼調教師となる。

1933年、第2回東京優駿大競走(日本ダービー)に管理馬カブトヤマが出走。当初は自ら騎乗する予定であったが体調を崩したため、馬主に騎手交代を申し入れた。すると馬主は「僕は君のためにこの馬を預けた。もしダービーを勝っても騎手が君じゃなかったらあまり嬉しくはないだろう。」と返した。大久保は馬主の心意気に応えるために騎乗を決意。高熱で朦朧としながら見事優勝した。

太平洋戦争中に競馬開催は一時中止となり、国営競馬として再開された1946年に改めて調教師免許を取得。90歳を過ぎても調教師を続け、1989年3月に調教師を引退。これはJRAが調教師の定年制を導入したためである。引退時91歳というのはJRA史上最年長の記録である。

騎手時代は気性難の馬を乗りこなすのが上手かった。そのコツは、「コブシを柔らかく、膝を柔らかく」して乗ることにあったという。 日本競馬史上初の牝馬のダービー馬であるヒサトモは気性が大変に悪く、調教では誰が乗ってもかかりどおしであったが、大久保だけは難なく乗りこなした。

門下生からも郷原洋行、的場均といった名騎手を輩出している。人柄は厳格であった半面弟子思いで、管理馬には常に門下生を乗せ、レースでいい結果を残せなかった場合でも降板させることはほとんどなかった。


[編集] 成績

[編集] 騎手成績
通算成績は資料がなく不明。


[編集] 主な勝ち鞍
東京優駿大競走(日本ダービー)(1933年カブトヤマ)

[編集] 調教師成績
通算成績6703戦775勝、重賞43勝(日本中央競馬会発足以降)


[編集] 主な勝ち鞍
東京優駿(日本ダービー)(1933年カブトヤマ、1955年オートキツ、1959年コマツヒカリ)
天皇賞(秋)(1962年11月クリヒデ)
農林省賞典(皐月賞)(1947年トキツカゼ)
阪神優駿牝馬・優駿牝馬(1939年ホシホマレ、1947年トキツカゼ、1948年ヤシマヒノ、1956年フェアマンナ)
農林省賞典障害(1936年ジュピターユートピア、1948年ブルーホマレ)

[編集] 受賞
優秀技術調教師賞(関東)(1955年)
調教技術賞(関東)(1977年)

[編集] 門下生
郷原洋行
的場均
坂本恒三
中口儀一郎
飯塚好次
関野弘行
大沢真
田村駿仁
二瓶郁夫

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岩元 市三

岩元 市三(いわもと いちぞう、1947年10月30日 - )は、日本中央競馬会 (JRA) 調教師、同会元騎手。鹿児島県出身。

騎手としてバンブーアトラスで東京優駿(日本ダービー)、ラフオンテースで阪神3歳ステークスなどを勝ち、調教師として顕彰馬・テイエムオペラオーを管理したことで知られる。

目次 [非表示]
1 騎手時代 「マムシの市っちゃん」
2 調教師として
2.1 受賞歴
3 関連項目



[編集] 騎手時代 「マムシの市っちゃん」
小学6年生時に父を亡くしていた長男の市三は、鹿児島から集団就職で大阪に出て花屋で働く。その後、騎手を志すようになり1967年に騎手候補生として布施正厩舎に入門、1974年に騎手デビューした時は既に27歳という苦労人だった。

夫人は師匠の布施正元調教師の次女である。

ファンや関係者・マスコミからは、しつこく競争相手に喰らいつく手綱さばきから「マムシ」と渾名され、人柄からか「市っちゃん(いっちゃん)」「いっつあん」と親しみを持って呼ばれ、インタビューや取材時の独特の語り口は「市っちゃん節」と言われて人気があった。

1977年の中日新聞杯(キングラナーク)で初重賞勝利。以来、ラフオンテースとのコンビで重賞5勝を挙げるなど、騎手として生涯所属した布施厩舎の馬を中心に通算JRA重賞29勝。

1982年 東京優駿(日本ダービー)をバンブーアトラスで勝利。

1989年 調教師免許取得に伴い騎手を引退。 JRA通算成績 578勝(全て平地)、騎乗数4917(内・障害5)、連対率.231


[編集] 調教師として
1988年 1989年度の調教師免許試験を受験し、僅か一度目の受験で合格。
1989年11月、夏村辰男厩舎の解散(夏村師の逝去)に伴い空きの出来た栗東トレーニングセンターに岩元市三厩舎を開業。
1990年1月、調教師として初勝利。同年9月、小倉3歳ステークス(テイエムリズム)で重賞初勝利。
1999年 皐月賞(テイエムオペラオー)でJRAGI初勝利。
2003年 11月8日、京都競馬第1レースでJRA通算300勝達成(3287戦目)。
主な管理馬はポレール(1996年度JRA賞最優秀障害馬)、テイエムオペラオー(JRA顕彰馬)など。

1996年より和田竜二が厩舎所属騎手。


[編集] 受賞歴
JRA賞 最多賞金獲得調教師(2000年)
JRA賞 優秀技術調教師(1999年)
優秀調教師賞(関西)(1990年、1991年、1999年、2000年)

[編集] 関連項目
竹園正繼(管理馬テイエムオペラオーの馬主)

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稲葉 幸夫

稲葉 幸夫(いなば ゆきお、1908年9月4日 - 2001年10月7日)は元騎手(東京競馬倶楽部、日本競馬会)、元調教師(日本競馬会、国営競馬、日本中央競馬会)。北海道の新冠御料牧場で生まれる。1923年3月、市父尋常小学校高等科卒業。1925年12月、順天中学中退。1981年、黄綬褒章を受章。調教師顕彰者。

家族や親戚にも競馬関係者が多く、兄の稲葉秀男は調教師、母方の叔父である美馬勝一、美馬信次、美馬孝之、美馬武雄はいずれも騎手または調教師。また、子の稲葉隆一はJRA調教師(マイネルラヴを管理)。

目次 [非表示]
1 経歴
2 成績
2.1 騎手成績
2.1.1 主な勝ち鞍
2.2 調教師成績
2.2.1 主な勝ち鞍
2.2.2 受賞



[編集] 経歴
父秀幸は新冠御料牧場の従業員であり、家族は牧場内で生活していた。そのため、自身も同牧場内で生まれ育った。尋常小学校卒業後、弁護士を志して上京するが学業を放棄し、目黒競馬場で調教師となっていた兄・秀男の下で見習騎手となった。1928年、騎手免許を取得。1938年、調教師兼騎手の免許を取得。

太平洋戦争の戦況悪化により競馬開催が一時中止に陥った際には二本柳俊夫とともに日本競馬会の運送業に就いた。 1946年10月の競馬再開と同時に調教師として復帰。JRAが調教師の定年制を導入したため、1989年3月に引退した。

調教師として牝馬の活躍馬を多く輩出し、「牝馬の稲葉」と呼ばれた。牝馬3冠競走を9勝した他、天皇賞も牝馬での優勝をした。さらに1976年には管理馬テイタニヤ・ディアマンテによる牝馬3冠競走年間完全制覇を達成している。

また管理馬タケホープは、ハイセイコーのライバルとして有名だった。

2004年、調教師顕彰者として殿堂入りを果たした。


[編集] 成績

[編集] 騎手成績
通算成績は資料が無いため不明。


[編集] 主な勝ち鞍
横浜農林省賞典4歳呼馬(1939年ロックパーク)
阪神優駿牝馬(1941年テツバンザイ)
中山農林省賞典障害(1934年キンテン)

[編集] 調教師成績
通算8414戦1133勝、重賞50勝(日本中央競馬会発足以降)


[編集] 主な勝ち鞍
天皇賞(秋)(1954年オパールオーキット、1964年ヤマトキョウダイ)
有馬記念(1964年ヤマトキョウダイ)
東京優駿(日本ダービー)(1973年タケホープ)
菊花賞(1973年タケホープ)
桜花賞(1971年ナスノカオリ、1976年テイタニヤ)
優駿牝馬(1941年テツバンザイ、1972年タケフブキ、1973年ナスノチグサ、1976年テイタニヤ、1981年テンモン)
エリザベス女王杯(1976年ディアマンテ、1982年ビクトリアクラウン)

[編集] 受賞
関東リーディングトレーナー(1972年、51勝)
優秀調教師賞(関東)(1956年、1958年、1967年、1983年)
調教技術賞(関東)(1967年)
日本中央競馬会理事長表彰(1973年)

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伊藤 正徳

伊藤 正徳(いとう まさのり、1948年10月22日 - )は日本中央競馬会の調教師、元騎手である。兵庫県出身。父は元騎手でトクマサで1936年の第5回東京優駿大競走(現在の日本ダービー)を制した伊藤正四郎(他に第1回菊花賞をテツモンで制した)。

目次 [非表示]
1 騎手時代
2 調教師時代
3 備考
4 外部リンク



[編集] 騎手時代
1964年に日本中央競馬会騎手養成所に入る。同期に岡部幸雄、柴田政人、福永洋一などがいたため「馬事公苑花の15期生」と呼ばれていた。1966年に尾形藤吉厩舎所属の騎手見習いとなり、1968年に騎手としてデビュー。

1977年5月に行なわれた第44回東京優駿(日本ダービー)でラッキールーラに騎乗し優勝。同期の中で最初にダービージョッキーとなる。また、この勝利により2組目の親子2代のダービージョッキーとなった。この他では1982年の第86回天皇賞(秋)をメジロティターンで、1973年の第23回安田記念をハクホオショウで制した(但し当時同競走はハンデキャップ競走)。

1987年に引退。通算成績は2037戦269勝。


[編集] 調教師時代
1988年に厩舎開業。同年5月15日の新潟競馬第8競走のエイコーフィバーで初勝利を挙げる。

1999年にエアジハードで安田記念、マイルチャンピオンシップを制す。他にはマイネルブリッジ(NHK杯など3勝)、ローエングリン(マイラーズカップなど4勝)など重賞は通算18勝。

1995年と1996年に優秀調教師賞を獲得。毎年20勝前後の勝利数を挙げるなど安定した成績を残している。

騎手後藤浩輝は1992年から1995年まで伊藤正徳厩舎の所属騎手で師弟関係を持っていた。


[編集] 備考
騎手時代に「おれでよければ」という曲でレコードを出した事もある。ジャケットに「大本命盤」と書いてあるが、これは同時期に田辺靖雄やアローナイツが同名で出したので違いを示すために銘打った物である。ちなみに弟子の後藤浩輝も「遥かなる君に」でCDをリリースした。

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伊藤雄二

伊藤雄二(いとう ゆうじ、1937年1月14日 - )はJRAの調教師、元騎手。栗東トレーニングセンター所属。大阪府出身。

目次 [非表示]
1 来歴
2 成績
3 管理馬
3.1 GI(級)勝利馬
3.2 重賞勝利馬
4 関連項目
4.1 伊藤と休養
4.2 関連書籍



[編集] 来歴
父は、昭和初期から戦後にわたり金鈴という名馬などに乗り、馬場馬術界で活躍した木下芳雄。その父の勧めで、18歳で伊藤正四郎厩舎の騎手見習いとなり、1959年に騎手デビューした。1966年、29歳のときに伊藤正四郎が逝去すると騎手を引退、調教師に転身し伊藤の跡を継いだ。JRA調教師伊藤正徳は義弟、娘の笹田淑はJRA初の女性調教助手。

これまでにマックスビューティ、シャダイカグラ、ウイニングチケット、エアグルーヴ、ファインモーションなどの名馬を手がけている。

2005年2月19日JRAでは8人目となる調教師通算1100勝を達成した。 なお2006年現在、中央競馬所属の現役調教師で調教師通算1000勝を達成しているのは伊藤ただ一人である。伊藤は若くして調教師に転身したため、達成できた記録でもあるだろうが、現在で考えれば40代から60代の調教師が大半を占め、70歳になれば定年を迎える。また近年には馬房の数に制限ができたため、いくら若くして調教師になることが出来たとしても1000勝までを達成することはほぼ不可能とも言える。藤澤和雄調教師が可能性のある1人と言え、一時期伊藤は藤澤をライバル視している言動が目立った。

2007年2月25日で定年により調教師を引退したが、伊藤はあくまでも「中締め」で今後も忙しいだろうとコメントしている。


[編集] 成績
重賞77勝、うちGIは10勝。 関西リーディングトレーナー7回、うち全国リーディング4回の名調教師である。


[編集] 管理馬

[編集] GI(級)勝利馬
サニーシプレー
ハードバージ -
マックスビューティ -
シャダイカグラ-
ダイイチルビー -
ウイニングチケット -
エアグルーヴ -
ファインモーション -
エアメサイア -

[編集] 重賞勝利馬
ゴールドイーグル
ニホンピロブレイブ
スカーレットブーケ
メイショウビトリア
メローフルーツ
マチカネタンホイザ
プライムステージ
エアダブリン
ニホンピロラック
ワコーチカコ
ロイヤルタッチ
マックスロゼ
センターライジング
マックスキャンドゥ
ロードアトラス
エアエミネム
ロードプラチナム
メイショウラムセス
エアセレソン
マチカネオーラ

[編集] 関連項目

[編集] 伊藤と休養
伊藤の調教方針として有名なのが、馬の成長や体質強化を目的とした長期放牧がある。実際、ファインモーション、ダイイチルビー等はこの長期休養によって成長が促され活躍した。一方、放牧中にピークをすぎてしまった馬も出ており、松田国英調教師と同様に賛否の声が聞かれる。


[編集] 関連書籍
『ウソのない競馬を教えよう 調教師伊藤雄二』

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伊藤 修司

伊藤 修司(いとう しゅうじ、1930年2月22日 - 2006年1月 )は兵庫県出身の元JRA騎手、元調教師。父は伊藤勝吉元調教師。上野清章(伊藤)元騎手は娘婿だった。


[編集] 来歴
1948年に騎手免許を取得。1961年にチトセホープで優駿牝馬(オークス)を勝つなど活躍した。1963年に引退、通算成績は981戦197勝。

1964年に調教師免許を取得し、同年より厩舎を開業する。1965年にハツライオーで札幌記念を勝ち重賞初制覇、以後1991年まで、27年連続重賞勝利という記録を達成している。名ジャンパーグランドマーチスや、華麗なる一族と呼ばれたハギノトップレディ・ハギノカムイオー、武豊に初めてのGI勝利(菊花賞)をもたらしたスーパークリークなど、数多くのGI馬を育成した。2000年に定年を迎えて調教師を引退、調教師としての通算成績は9138戦1223勝(重賞83勝)。

2006年1月末に死去。訃報が伝えられたのは同年5月のことであった。


[編集] 代表騎乗馬
チトセホープ(1961年優駿牝馬優勝、啓衆賞最優秀4歳牝馬)
シーザー(1961年宝塚記念優勝)

[編集] 代表管理馬
マーチス(1968年皐月賞優勝、啓衆賞最優秀4歳牡馬)
ヒデコトブキ(1969年桜花賞優勝)
グランドマーチス(中山大障害4度優勝、1974年・1975年優駿賞最優秀障害馬、顕彰馬)
ハギノトップレディ(1980年桜花賞、エリザベス女王杯優勝、優駿賞最優秀4歳牝馬、名牝ダイイチルビーの母)
ハギノカムイオー(1983年宝塚記念優勝)
スーパークリーク(1988年菊花賞、1989年天皇賞(秋)、1990年天皇賞(春)優勝)

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池江 泰郎

池江 泰郎(いけえ やすお、1941年3月1日 - )はJRAの調教師。2005年の三冠馬ディープインパクト、顕彰馬にも選ばれたメジロマックイーンなどの調教を手がけたことで知られる。

騎手時代には「逃げの池江」の異名を取り、代表的騎乗馬には名牝ヤマピットがいる。調教師に転身してからは、メジロデュレンでの菊花賞を始めとした国内GI制覇のほか、2001年にはステイゴールドで香港ヴァーズを勝ち、海外GIをも制覇。2005年にはディープインパクトで三冠を制すなど、数多くの名馬を世に送り出した。子の池江泰寿も調教師。また、稀代のアイドルホース・オグリキャップの中央競馬在籍時代の厩務員、池江敏郎は兄。阪神タイガースファンとしても知られている。

目次 [非表示]
1 データ
1.1 略歴
1.2 所属場歴
1.3 表彰歴
2 代表管理馬
3 エピソード



[編集] データ
出生地:宮崎県北諸県郡高城町(現・都城市)
出身地:宮崎県北諸県郡高城町(現・都城市)
所属場:栗東トレーニングセンター
初出走:1979年10月7日 3回中京2日目 第4レース、ブュークイン(16着)
初勝利:1980年2月9日 1回中京5日目 第3レース、メジロカペラ(のべ38頭目)
騎手時代成績:3275戦368勝

[編集] 略歴
1957年:相羽仙一厩舎(京都)所属で騎手見習となる
1959年:騎手となる
1963年:橋本正晴厩舎(京都)へ所属変更
1964年:浅見国一厩舎(京都、のち栗東)へ所属変更
1978年:調教師免許を取得
1986年:菊花賞で調教師として初GI制覇

[編集] 所属場歴
1978年~:栗東トレーニングセンター

[編集] 表彰歴
1986年:優秀調教師賞(関西)
1994年:優秀調教師賞(関西)
1996年:優秀調教師賞(関西)
1998年:優秀調教師賞(関西)
2002年:優秀調教師賞(関西)
2004年:優秀調教師賞(関西)

[編集] 代表管理馬
メジロデュレン(1986年菊花賞、1987年有馬記念優勝)
ラッキーゲラン(1988年阪神3歳ステークス優勝)
メジロマックイーン(1990年菊花賞などGI4勝・顕彰馬)
トゥザヴィクトリー(2001年エリザベス女王杯優勝、ドバイワールドカップ2着)
ステイゴールド(2001年香港ヴァーズ、ドバイシーマクラシック優勝、2001年度JRA賞特別賞)
ノーリーズン(2002年皐月賞優勝)
ゴールドアリュール(2002年JRA賞最優秀ダートホース賞、2003年フェブラリーステークスなどGI4勝)
ディープインパクト(2005年牡馬三冠馬、2006年天皇賞・春、宝塚記念、ジャパンカップ、有馬記念)

[編集] エピソード
今でこそディープインパクトなど数々の名馬を送りだし、誰もが認める名調教師だが、開業当初は全く勝てなかったという。そのためか現在では新人調教師が中々勝てない時には、「あの池江さんですら開業当時は中々勝てなかったんだから」という言葉が栗東トレセンの慰め言葉になっているという。
2006年にディープインパクトと共に凱旋門賞に挑戦。3着に敗れるが、3強と言われたレースでライバルのハリケーンランとシロッコには先着する健闘を見せた。しかしその後の理化学検査において禁止薬物イプラトロピウムが検出され、同馬は失格、同師にも最高金額の制裁金が課された。こういったことから、帰国初戦となったジャパンカップに圧勝した同馬を検量室前で出迎えに降りてきたとき、感極まって涙を浮かべていたという。

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調教師

調教師(ちょうきょうし)とは、競馬において厩舎を運営し競走馬を管理することを業とする者のことである。現場では、俗に騎手を逆にした手騎(テキ)と呼ばれている。

目次 [非表示]
1 日本における免許制
2 開業まで
3 開業後
3.1 メリットシステム
4 引退・定年制
5 関連項目



[編集] 日本における免許制
日本で中央競馬の調教師になろうとする者は日本中央競馬会が発行する調教師免許を、地方競馬の調教師になろうとする者は地方競馬全国協会の調教師免許を取得することが必要である。この2つの免許は異なるものである。 また、騎手免許と調教師免許は同時に取得することは出来ないため、騎手免許を持っていた者が調教師免許を取得した場合、騎手免許を返上し騎手を引退するのが通例である(騎手#調騎分離に詳しい)。調教師免許を持っていた者が騎手免許を取得した例は日本ではないが、取得しようと騎手免許試験を受験した例はある(2000年に内藤繁春が受験したことがある)。

調教師試験の合格者は#開業までにもあるとおり、日本の競馬では馬房の数の制限があるために、ある年に調教師になることができる人数は、引退する調教師の人数との関係で自ずと制限される。調教師となることの出来る人数が限られる以上、調教師免許試験の合格者数も限られており、中央競馬の調教師免許試験では年に5~8人ほどというのが通例である。そのため、しばしば合格率が1割にも満たない超難関となる。


[編集] 開業まで
日本において、調教師が調教師業を始めるにあたっては免許の他に、馬房(馬を飼育する施設)が必要である。馬房は主催者(中央競馬においては日本中央競馬会(JRA))から与えられるもののみが使用できる。自分の資金で独自に馬房などの設備を構えて、そこで調教師業を開くことはできない(ただし、現在は外厩と呼ばれる制度が一部の地方競馬で導入されている。また馬房に冷房装置を取り付けるなどの改良は行える場合がある)。 馬房は競馬場もしくはトレーニングセンター(中央競馬では美浦トレーニングセンターと栗東トレーニングセンター)と呼ばれる場所に存在する。

なお調教師免許取得者は、免許取得から約1年間、すでに開業している調教師の下で研修を積むのが通例である。この期間に馬主とのパイプを確保し、開業時に競走馬を確保する準備期間も兼ねている。 ただし、調教師が死亡したり、免許を返上するなどして、急に馬房が空いた場合には、臨時貸付期間(調教師が不在の厩舎の競走馬は競走に出走できない為、既に開業している調教師に馬房を臨時で割り当て、競走馬の出走などの日常業務を滞りなく行うとともに、転厩などの為の準備期間)を経て、研修中の調教師が予定を繰り上げて開業することになる。


[編集] 開業後
主催者から与えられる一定数の馬房(馬を飼育する施設)を使って競走馬を管理し、レースに出走させる。収入源は馬を預かって調教する預託料と、競走で勝利を収める際に入ってくる賞金である。競走で勝利を収めることによって馬を預かって欲しくなる馬主が増加し、預託料も増加することから、競走で勝利することが調教師の収益に大きな影響を与える。

中央競馬では物理的な制約から総馬房数が自然と決まり、それを各調教師ごとに配分している。現在では新調教師には少なく割り当てられ、年々その数を増やすことで、開業当初の不慣れな調教師業での負担軽減と、慣れてきた頃に調教師業の拡大を円滑に行わせる目的がある。また、近年では馬房数は競争原理により増減させるメリットシステムを導入している(#メリットシステムを参照)、 調教師が馬主と預託契約を結ぶことのできる頭数には一定の制限がある(現在は管理馬房数の3倍が上限。馬房数の上限は24とされているため、72頭を上回ることはない)。


[編集] メリットシステム
中央競馬において、2004年度より、調教師の厩舎経営状況・調教技術により、厩舎の管理馬房数が増減する制度(メリットシステム)が導入された。競馬界にも優勝劣敗の法則を導入するべきであるとの声に応えての取り組みである。なお、2006年の年末にルールの一部見直しが発表された。

対象は20馬房の割り当てを受けている(過去に受けた)調教師であり、新人や開業後まもない調教師(開業直後は20馬房より少ない数から始まり、年々加増される)は対象から外される。 具体的には、経営状況(1馬房あたりの出走実頭数、1馬房あたりの出走延頭数)と調教技術の評価(1馬房あたりの勝利数、1馬房あたりの獲得賞金、勝率)の項目を偏差値化し、前2年間の合計(2008年より出走実頭数、出走延頭数は1/2とされる)に基づき評価される。 評価の結果、各トレーニングセンター毎に下位である約1割(2007年度より)の馬房が2ずつ削減され、その馬房が上位の調教師に分配される(実際には2004年は下位5厩舎、2005年は下位8厩舎、2006年は下位12厩舎の馬房が削減された)。馬房数の変更は物理的なものを伴う為、評価は同一トレーニングセンター内でのみ行われ、美浦と栗東の異なるトレーニングセンターの調教師が比較されることはない。 また、2008年より過去に削減された調教師がその翌年以降、査定順位の中央値を上回った場合には、馬房を加増の対象となる。 同一の調教師が2年連続で削減の対象となることはない(しかし、逆に言えば2年後もまた評価順位が下位ならば再削減を食らうということでもある)。2009年には馬房数の加増は28まで、削減は12までの範囲で行われることとなっている。


[編集] 引退・定年制
調教師は騎手とは異なり、肉体労働というよりもマネージメント業であるため、高齢になっても仕事を行うことは難しくない。

しかし、総馬房数が限られているにもかかわらず高齢の調教師が引退しないために世代交代がうまく進まず、調教師試験の合格率が5%前後にまで落ち込むなど旧来の制度の弊害が顕著に表れた。 そのため、中央競馬においては、1989年3月1日より調教師の70歳定年制が導入された。ただし当時は70歳を超える調教師が多数であったため1999年までは経過期間とされ、要件どおりの制度運用が開始されたのは2000年以降である。この制度により、稲葉幸夫、二本柳俊夫、大久保房松といったベテラン調教師が引退した。

また大井競馬でも定年制(75歳)が導入されている。一方で川崎競馬では調教師の定年制が無い為、八木正雄調教師(1917年2月23日生)は2007年の誕生日を迎えて90歳となるが、現役の調教師として活躍をしている。

2007年02月28日 トラックバック(-) コメント(-)

吉田 均

吉田 均(よしだ ひとし、1949年 - )は、産業経済新聞社東京本社の社員で、同社が発行する競馬情報紙競馬エイトに所属するトラックマン、競馬評論家。

競馬エイトの本紙予想を担当。別名を「攻めの吉田」。競馬エイト創刊時から在籍している(一時、産経本社の発行紙別分社政策によってサンケイスポーツ新聞社に属していた。詳細はサンケイスポーツを参照)。以前は穴予想(関東馬偏重傾向)が多かったが、本紙担当になってからは手堅い予想が目立つようになった。

本人曰く、一番思い出に残っているサラブレッドはテイタニヤで、理由は「トラックマン一年目の時、調教を見ていて見つけた馬だったから。(ちなみに、ペーパー馬主)」。また、一番思い出に残っているレースもテイタニヤが勝った桜花賞。

また、フジテレビのスーパー競馬にもレギュラー解説者として出演し、実況放送席(現在はメインレースのみ)、パドック席両方の解説を担当している。以前はニッポン放送の「日曜競馬ニッポン」にもスーパー競馬と掛け持ちで出演していた。

2007年02月28日 トラックバック(-) コメント(-)

競馬の調教師一覧

競馬の調教師一覧(けいばのちょうきょうしいちらん)は日本中央競馬会 (JRA) に所属している(もしくは所属していた)調教師、地方競馬全国協会が調教師免許を発行した調教師、そして日本以外で活躍している主な調教師の一覧である。

目次 [非表示]
1 中央競馬
1.1 あ行
1.2 か行
1.3 さ行
1.4 た行
1.5 な行
1.6 は行
1.7 ま行
1.8 や行
1.9 ら行
1.10 わ行
2 地方競馬
3 日本以外



[編集] 中央競馬

[編集] あ行
浅見秀一
池江泰郎
池添兼雄
石坂正
伊藤修司(故人)
伊藤正徳
伊藤雄二
稲葉幸夫(故人)
岩元市三
大久保房松(故人)
大久保正陽(引退)
大久保洋吉
大沢真(故人)
尾形藤吉(故人)
尾形充弘
音無秀孝
奥平真治

[編集] か行
加賀武見
加藤和宏 (JRA)
加藤敬二
加藤修甫(引退)
河内洋
北橋修二(引退)
国枝栄
久保田金造(故人)
栗田勝(故人)
河野通文
郷原洋行
小島太
小島貞博
小林稔(引退)

[編集] さ行
境勝太郎(引退)
坂口正則
坂口正大
作田誠二
佐々木晶三
佐山優
柴田政人
嶋田功
白井寿昭
菅原泰夫
鈴木勝太郎(故人)
鈴木康弘
角居勝彦
瀬戸口勉

[編集] た行
高松邦男
高松三太
武邦彦
武宏平
武田作十郎(故人)
武田文吾(故人)
田中章博
田中清隆
田原成貴(引退)
鶴留明雄
戸山為夫(故人)

[編集] な行
内藤繁春(引退)
中尾謙太郎(引退)
中野栄治
中村均
長浜博之
西浦勝一
二ノ宮敬宇
二分久男(引退)
二本柳俊夫(故人)
野平祐二(故人)

[編集] は行
函館大経(故人)
橋口弘次郎
橋田満
浜田光正
藤沢和雄
藤本冨良(故人)
布施正(故人)
古川平
堀井雅広

[編集] ま行
増沢末夫
松田国英
松田博資
松永幹夫
松元省一
松元茂樹
松山康久
松山吉三郎(故人)
的場均
南井克巳
宮本博
森秀行

[編集] や行
安田伊佐夫
保田一隆
安田隆行
保田隆芳(引退)
矢野照正
山内研二
山本正司
湯浅三郎
吉永正人(故人)

[編集] ら行

[編集] わ行
渡辺栄(引退)

[編集] 地方競馬
赤間清松(大井)
加藤和宏 (地方競馬)(金沢)
金山明彦(ばんえい)
川島正行(船橋)
佐々木修一(水沢)
曾和直榮(兵庫)
高橋三郎(大井)
田部和則(北海道)
千葉四美(水沢)
角田輝也(名古屋)
出川克己(船橋)
宗石大(高知)
荒川友司(笠松・故人)
保利照美(兵庫・引退)
鷲見昌勇(笠松・引退)

[編集] 日本以外
アイヴァン・アラン(香港)
アンドレ・ファーブル(フランス)
ヴィンセント・オブライエン(アイルランド・引退)
ウエイン・ルーカス(アメリカ)
エイダン・オブライエン(アイルランド)
サイード・ビン・スルール(UAE)
高岡秀行(シンガポール)
フェデリコ・テシオ(イタリア・故人)
ボビー・フランケル(アメリカ)
ボブ・バファート(アメリカ)
リチャード・マンデラ(アメリカ)

2007年02月20日 トラックバック(-) コメント(-)

二分 久男

二分 久男(にぶん ひさお、1930年12月29日 - )は日本中央競馬会 (JRA) 栗東トレーニングセンターに所属していた調教師である。宮崎県都城市出身。同じく調教師の布施正(故人)とは義理の兄弟の間柄に当たる。

目次 [非表示]
1 経歴
1.1 受賞歴
1.2 主な管理馬
1.3 マイナー血統馬での快進撃
2 引退後
3 関連項目



[編集] 経歴
1965年に調教師免許を取得し、厩舎を開業。
1978年、アグネスホープで東京優駿(日本ダービー)2着。
1980年、ノースガストで菊花賞を制覇。クラシック初優勝。
1981年、テキサスワイポンで中山大障害(秋)を制覇。
1997年1月11日、マチカネコンチキチでJRA通算600勝を達成。マチカネフクキタルで2度目の菊花賞制覇。年間32勝を挙げ、全国リーディング8位と活躍。
2001年2月28日をもって定年を迎え、調教師を引退。JRA通算7783戦で675勝(うち障害181戦23勝)を挙げた。なお、最後まで残っていた所属馬は、直後に新規開業した角居勝彦厩舎へ転厩となった。

[編集] 受賞歴
優秀調教師賞、優秀厩舎スタッフ賞(関西)(1997年)

[編集] 主な管理馬
ノースガスト (菊花賞、神戸新聞杯) 父アラナス
テキサスワイポン (中山大障害(秋)、京都大障害(春)、阪神障害ステークス(秋)、中京障害ステークス)
シンウインド (スワンステークス、京王杯スプリングカップ) 父ウエスタンウインド
マチカネフクキタル (菊花賞、神戸新聞杯、京都新聞杯) 父クリスタルグリッターズ
テイエムオオアラシ (カブトヤマ記念、福島記念、小倉記念) 父セクレファスター
シンカイウン (朝日チャレンジカップ、中日新聞杯) 父シンチェスト
ツルマルツヨシ (朝日チャレンジカップ、京都大賞典) 父シンボリルドルフ

[編集] マイナー血統馬での快進撃
1997年には、マチカネフクキタル・テイエムオオアラシ・シンカイウンの3頭で重賞を6勝するなど、秋競馬の重賞戦線を大いに賑わせ、普段馴染みの薄い血統の馬が立て続けに好走したことも話題となった。

事実、サンデーサイレンス、ブライアンズタイム、トニービンをはじめとした上位リーディングサイアーの産駒は、ほぼ皆無と言っていいほど二分厩舎には入厩しておらず、それでいて、半年のうちにこれだけの成績を残したのは驚異的なことである。血統だけでなく、実際に馬を見て選ぶことも重視した二分の相馬眼の確かさも、その一因を担っていたと言える。


[編集] 引退後
調教師引退後は、故郷・宮崎で競走馬の育成に携わっており、競走馬の育成風景を取り上げたNHKの朝のニュース内のコーナーで、インタビューを受けたこともある。


[編集] 関連項目
外枦保重秋 (元騎手、のちに二分厩舎の調教助手に)
西園正都 (元所属騎手、現在は調教師)
酒井学 (元所属騎手、現在は西園厩舎所属)

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西浦勝一

西浦勝一(にしうら かついち、1951年2月7日-)は日本中央競馬会(JRA)の元・騎手で調教師。栗東トレーニングセンター所属。高知県出身(生まれは長崎県)。


[編集] 騎手としての経歴
1969年、3月1日に土門健司厩舎所属騎手としてデビュー。同4月13日にミシマホープで初勝利。
1980年、阪神競馬場の改修で中京競馬場で代替開催された宝塚記念をテルテンリュウで勝利。
1981年、アグネステスコでエリザベス女王杯に勝利。
1984年、カツラギエースで宝塚記念勝利、さらに同年のジャパンカップでは10番人気ながら外国馬のみならずミスターシービー、シンボリルドルフの両三冠馬をも抑え、日本調教馬として初の同レース勝利。「世界のニシウラ」と賞賛される。
1988年、ヤエノムテキで皐月賞に勝利。
1992年、フリーになる。
1996年、調教師試験に合格、2月29日付で騎手を引退。JRA通算635勝(うち障害2勝)、重賞26勝。

[編集] 調教師としての成績 
1997年、3月1日に厩舎開業。同日、サンセットムーンで初勝利。さらにこの年の京都大障害(春)をネーハイジャパンで重賞初勝利。
2000年、テイエムオーシャンで阪神3歳牝馬ステークスを勝ち(厩舎のG?初勝利でもある)、同馬はこの年の最優秀3歳牝馬として表彰。
2001年、テイエムオーシャンで桜花賞と秋華賞を制覇。同馬はこの年の最優秀3歳牝馬(この年から満年齢で年齢計算の為、賞の名前だけは前年と同じ)として表彰。
2006年、カワカミプリンセスで優駿牝馬と秋華賞に勝利。同馬はこの年の最優秀3歳牝馬として表彰される。
所属馬には「橙色に水色の縦縞」で統一されたデザインのメンコを出走時に着用させている事が多い。(前述のテイエムオーシャン・カワカミプリンセスの他に、マイソールサウンド・アグネスラズベリなど)

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中野 栄治

中野 栄治(なかの えいじ、1953年3月31日 - )は中央競馬・美浦トレーニングセンター所属の調教師。東京都出身だが生まれは大分県。

目次 [非表示]
1 経歴
2 成績
2.1 記録年表
3 関連項目



[編集] 経歴
1971年に美浦の荒木静雄厩舎所属の騎手としてデビュー。1976年のきさらぎ賞(スピリットスワプス)で重賞初勝利。1981年からフリーに。騎手時代の代表馬といえば、やはりアイネスフウジンが挙げられる。1989年の朝日杯3歳ステークスで、マルゼンスキーが記録した1分34秒4のレコードタイで勝利した。このため、クラシックレースでも期待されたが、皐月賞では出遅れが響きハクタイセイの3着に敗れる。このため、様々な方面から騎乗に対する批判や馬の距離の限界がささやかれたが、その批判は東京優駿(日本ダービー)で打ち消した。速いペースで最初から逃げ、2分25秒3のレースレコードで逃げ切った。2分25秒台で日本ダービーを勝った馬は過去に居らず、記録が破られるのは実に14年後の事だった。この快挙に東京競馬場に詰めかけた約20万の観客から「ナカノ!ナカノ!」と中野コールがわき起こった。競馬場でGIレースの勝利騎手、勝利馬にコールが起きるのは、この時以来とされている。

当時、中野は年間勝ち星が1桁で、体重管理を怠っており、騎乗する馬がほとんど居ない状況だった。加藤修甫調教師は最後の一花を咲かせてやりたいと思ったのか、「ダービーを勝つ馬に乗ってみないか?」と中野に声をかけ、厩舎のエース格だった中舘英二を差し置いて、アイネスフウジンへの騎乗を依頼したといわれる。

1995年にJRA調教師免許を取得し騎手を引退。美浦所属の調教師となる。2001年に管理馬のトロットスターで高松宮記念、スプリンターズステークスを制する。


[編集] 成績
騎手成績 3670戦370勝


[編集] 記録年表
1995年、JRA調教師免許取得。3月開業。初出走は3月10日1回中京4日目3Rエータイムの7着。
 6月9日1回札幌2日目1Rエータイムで延33頭目にして初勝利。

2000年、トロットスターで初重賞(CBC賞)制覇
2001年、トロットスターで高松宮記念、スプリンターズステークスと GI レースを初制覇とともに2勝する。

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中尾謙太郎

中尾謙太郎(なかお けんたろう、1933年3月6日 - )は、元厩務員(国営競馬、中央競馬)、元調教助手(中央競馬)、元調教師(中央競馬)。実弟には中尾銑治元調教師、中尾正調教師がいる。


[編集] 経歴
1951年に京都競馬場の武田文吾厩舎の厩務員となり、五冠馬シンザンの担当厩務員となった。その後京都競馬場の玉谷敬治厩舎で厩務員・調教助手を務め、1975年に調教師免許を取得。厩務員出身者として初めて中央競馬の調教師となった。2004年に定年を迎え、調教師を引退。


[編集] 調教師成績
通算成績 5007戦477勝(重賞16勝、うちGI1勝)


[編集] 主な管理馬
ファイトガリバー(1996年桜花賞)

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内藤 繁春

内藤 繁春(ないとう しげはる、1931年1月12日 - )は元騎手、元調教師(中央競馬・栗東トレーニングセンター所属)。愛知県。

目次 [非表示]
1 経歴
2 成績
2.1 記録年表
3 関連項目



[編集] 経歴
1950年に美浦の鈴木信太郎厩舎所属の騎手見習としてデビュー。1952年に騎手となる。初騎乗は1952年9月14日のスターランド(7着)。初勝利は1955年2月20日にリンコンで挙げた。その後1954年に千倉政雄厩舎、1956年に久保道雄厩舎、1958年に日迫清厩舎、1960年に義兄の鈴木和雄厩舎に移籍。1965年、1966年の宝塚記念を連覇する等の活躍をした。

1968年に義兄の鈴木和雄調教師が急死したため、騎手として現役がまだまだ続けられる状況だったが調教師に転身。 1970年に京都牝馬特別をクニノハナで制し重賞初勝利。1979年にはハシハーミットで菊花賞優勝。話題になったのは1991年の有馬記念のダイユウサクである。15頭立ての14番人気で出走し,最後の直線で大本命だったメジロマックイーンを差しきり、さらに従来のレコードを一気に1秒1も縮めるレコード勝ちを見せて、世紀の番狂わせを演じた。

調教師の定年が70歳であったが、騎手には定年が定められていない。そこで2000年には69歳ながら千葉県白井町の競馬学校で行われた新規騎手試験を受験した。若くして転身した騎手にもう一度復帰しようという試みは様々な方面から応援の声を受けた。だが1次試験の学科試験に手こずり、走路試験、障害試験でも馬を止められなかったり指定されたコースを回れない等、約30年振りの騎手再挑戦は厳しいものであった。結局、騎手の試験には不合格となり、調教師を引退した。


[編集] 成績
騎手成績 2926戦307勝(平地 2710戦290勝、障害 216戦17勝)

調教師成績 11201戦893勝(平地 10126戦769勝、障害 1075戦124勝)、重賞25勝


[編集] 記録年表
1968年、JRA調教師免許取得。3月開業。初出走は3月2日2回京都3日目2Rカズミツの5着。
 3月3日2回京都4日目10Rグレースタイバーで延9頭目にして初勝利。

1970年、クニノハナで初重賞(京都牝馬特別)制覇。
1979年、ハシハーミットで菊花賞制覇(当時はグレード制導入前)。
1991年、ダイユウサクで有馬記念制覇。
1996年、エイシンワシントンがスプリンターズステークスに出走、わずか1cm差で制覇ならず。
2000年、調教師の定年を控え、騎手試験を受験するも不合格。引退。

[編集] 関連項目
熊澤重文:内藤の弟子(現在はフリー)

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