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西浦勝一

西浦勝一(にしうら かついち、1951年2月7日-)は日本中央競馬会(JRA)の元・騎手で調教師。栗東トレーニングセンター所属。高知県出身(生まれは長崎県)。


[編集] 騎手としての経歴
1969年、3月1日に土門健司厩舎所属騎手としてデビュー。同4月13日にミシマホープで初勝利。
1980年、阪神競馬場の改修で中京競馬場で代替開催された宝塚記念をテルテンリュウで勝利。
1981年、アグネステスコでエリザベス女王杯に勝利。
1984年、カツラギエースで宝塚記念勝利、さらに同年のジャパンカップでは10番人気ながら外国馬のみならずミスターシービー、シンボリルドルフの両三冠馬をも抑え、日本調教馬として初の同レース勝利。「世界のニシウラ」と賞賛される。
1988年、ヤエノムテキで皐月賞に勝利。
1992年、フリーになる。
1996年、調教師試験に合格、2月29日付で騎手を引退。JRA通算635勝(うち障害2勝)、重賞26勝。

[編集] 調教師としての成績 
1997年、3月1日に厩舎開業。同日、サンセットムーンで初勝利。さらにこの年の京都大障害(春)をネーハイジャパンで重賞初勝利。
2000年、テイエムオーシャンで阪神3歳牝馬ステークスを勝ち(厩舎のG?初勝利でもある)、同馬はこの年の最優秀3歳牝馬として表彰。
2001年、テイエムオーシャンで桜花賞と秋華賞を制覇。同馬はこの年の最優秀3歳牝馬(この年から満年齢で年齢計算の為、賞の名前だけは前年と同じ)として表彰。
2006年、カワカミプリンセスで優駿牝馬と秋華賞に勝利。同馬はこの年の最優秀3歳牝馬として表彰される。
所属馬には「橙色に水色の縦縞」で統一されたデザインのメンコを出走時に着用させている事が多い。(前述のテイエムオーシャン・カワカミプリンセスの他に、マイソールサウンド・アグネスラズベリなど)


[編集] 関連項目 
本田優

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2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

二分 久男

二分 久男(にぶん ひさお、1930年12月29日 - )は日本中央競馬会 (JRA) 栗東トレーニングセンターに所属していた調教師である。宮崎県都城市出身。同じく調教師の布施正(故人)とは義理の兄弟の間柄に当たる。

目次 [非表示]
1 経歴
1.1 受賞歴
1.2 主な管理馬
1.3 マイナー血統馬での快進撃
2 引退後
3 関連項目



[編集] 経歴
1965年に調教師免許を取得し、厩舎を開業。
1978年、アグネスホープで東京優駿(日本ダービー)2着。
1980年、ノースガストで菊花賞を制覇。クラシック初優勝。
1981年、テキサスワイポンで中山大障害(秋)を制覇。
1997年1月11日、マチカネコンチキチでJRA通算600勝を達成。マチカネフクキタルで2度目の菊花賞制覇。年間32勝を挙げ、全国リーディング8位と活躍。
2001年2月28日をもって定年を迎え、調教師を引退。JRA通算7783戦で675勝(うち障害181戦23勝)を挙げた。なお、最後まで残っていた所属馬は、直後に新規開業した角居勝彦厩舎へ転厩となった。

[編集] 受賞歴
優秀調教師賞、優秀厩舎スタッフ賞(関西)(1997年)

[編集] 主な管理馬
ノースガスト (菊花賞、神戸新聞杯) 父アラナス
テキサスワイポン (中山大障害(秋)、京都大障害(春)、阪神障害ステークス(秋)、中京障害ステークス)
シンウインド (スワンステークス、京王杯スプリングカップ) 父ウエスタンウインド
マチカネフクキタル (菊花賞、神戸新聞杯、京都新聞杯) 父クリスタルグリッターズ
テイエムオオアラシ (カブトヤマ記念、福島記念、小倉記念) 父セクレファスター
シンカイウン (朝日チャレンジカップ、中日新聞杯) 父シンチェスト
ツルマルツヨシ (朝日チャレンジカップ、京都大賞典) 父シンボリルドルフ

[編集] マイナー血統馬での快進撃
1997年には、マチカネフクキタル・テイエムオオアラシ・シンカイウンの3頭で重賞を6勝するなど、秋競馬の重賞戦線を大いに賑わせ、普段馴染みの薄い血統の馬が立て続けに好走したことも話題となった。

事実、サンデーサイレンス、ブライアンズタイム、トニービンをはじめとした上位リーディングサイアーの産駒は、ほぼ皆無と言っていいほど二分厩舎には入厩しておらず、それでいて、半年のうちにこれだけの成績を残したのは驚異的なことである。血統だけでなく、実際に馬を見て選ぶことも重視した二分の相馬眼の確かさも、その一因を担っていたと言える。


[編集] 引退後
調教師引退後は、故郷・宮崎で競走馬の育成に携わっており、競走馬の育成風景を取り上げたNHKの朝のニュース内のコーナーで、インタビューを受けたこともある。


[編集] 関連項目
外枦保重秋 (元騎手、のちに二分厩舎の調教助手に)
西園正都 (元所属騎手、現在は調教師)
酒井学 (元所属騎手、現在は西園厩舎所属)

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

二本柳 俊夫

二本柳 俊夫(にほんやなぎとしお、1920年8月8日 - 2006年5月17日 )は、元騎手(日本レース・倶楽部、日本競馬会、国営競馬、日本中央競馬会(JRA))、元調教師(日本中央競馬会)。神奈川県横浜市出身。1932年、立野尋常高等小学校尋常科を卒業。1992年4月、黄綬褒章を受章。2004年、調教師顕彰者。父は二本柳省三(騎手兼調教師)、兄は二本柳勇(騎手)、子の二本柳俊一は現在JRA調教師で、孫の二本柳壮も現在JRA騎手である。

目次 [非表示]
1 経歴
1.1 騎手時代
1.2 調教師転向
1.3 シリウスシンボリ移籍事件
2 成績
2.1 騎手成績
2.1.1 主な勝ち鞍
2.2 調教師成績
2.2.1 主な勝ち鞍
2.2.2 受賞
3 門下生



[編集] 経歴

[編集] 騎手時代
1932年、横浜競馬場にある父・省三の厩舎で見習騎手となる。1933年、兄・勇の厩舎へ移籍。1935年、騎手免許取得。

1940年に兵役につくが体調を崩し翌1941年に兵役を免除された。太平洋戦争の戦況が悪化し競馬開催が一時停止に追い込まれると、稲葉幸夫のもとで日本競馬会の運送業に従事。戦後は進駐軍関係の仕事に従事するが、1946年に競馬界に復帰した。

1947年、ヤマトナデシコで中山記念に勝ち重賞初制覇。1955年にはオートキツで東京優駿(日本ダービー)を優勝。


[編集] 調教師転向
1957年に調教師免許を取得し、同年9月に厩舎開業。翌1958年、開業2年目にしてオンワードゼアで天皇賞(春)、有馬記念を含む重賞4勝を挙げる。

1980年代に調教師として全盛期を迎えた。ホウヨウボーイ、アンバーシャダイ、シリウスシンボリといった名馬を相次いで手がけ、また勝利度数においても1980年から1982年にかけて3年連続で関東リーディングトレーナー、1982年には全国リーディングトレーナーの座を獲得した。


[編集] シリウスシンボリ移籍事件
1985年春、シリウスシンボリの騎手起用を巡って馬主の和田共弘と対立。発端は二本柳厩舎主戦騎手であった加藤和宏騎乗のデビュー2戦目が斜行による失格、3戦目を4コーナーで不利を受けての2着という結果に終わったため、これに不満を覚えた和田が岡部幸雄への乗り替わりを主張したことにある。

元来、二本柳は管理馬の騎手には門下生を起用する調教師であった。当時の和田は皇帝シンボリルドルフを所有し飛ぶ鳥を落とす勢いのオーナーブリーダーであったが、相手が誰であろうと主義を曲げることはなかった。二本柳はあくまでも弟子を庇い、「不満があるならよその厩舎へ行ってくれ」と主張、これを受けて和田は畠山重則厩舎へシリウスシンボリを転厩させてしまう。この行動は二本柳厩舎スタッフばかりでなく厩務員組合全体の反発を呼び、遂には調教師会が仲介に乗り出す事態にまで発展した。結局シリウスシンボリは二本柳厩舎に戻され、その年の東京優駿(日本ダービー)を制覇。加藤は師匠の思いに見事応えた。

なお、この勝利で騎手としても調教師としても日本ダービー制覇を達成した。これは二本柳を含め3人しか達成していない記録である。

1997年2月28日、引退。これはJRAが調教師70歳定年制度を導入したためである。 2004年、調教師顕彰者として殿堂入り。

2006年5月17日、肺炎のため死去した。


[編集] 成績

[編集] 騎手成績
通算成績388戦105勝(日本中央競馬会発足以降)


[編集] 主な勝ち鞍
東京優駿(日本ダービー)(1955年、オートキツ)

[編集] 調教師成績
通算成績8042戦1043勝、重賞48勝


[編集] 主な勝ち鞍
東京優駿(日本ダービー)(1985年シリウスシンボリ)
天皇賞(春)(1958年オンワードゼア、1983年アンバーシャダイ)
天皇賞(秋)(1981年ホウヨウボーイ)
有馬記念(1958年オンワードゼア、1981年アンバーシャダイ)
菊花賞(1961年アズマテンラン、1962年ヒロキミ)
優駿牝馬(1982年シャダイアイバー)
中山大障害(春)(1962年フェニックス)
中山大障害(秋)(1985年オンワードボルガ)

[編集] 受賞
全国リーディングトレーナー(1982年)
関東リーディングトレーナー(1980年~1982年)
優秀調教師賞(関東)(1966年)
調教技術賞(関東)(1964年~1966年、1979年~1982年)
重賞獲得調教師賞(関東)(1983年)
スポーツ功労者 文部科学大臣顕彰(1994年度)

[編集] 門下生
加藤和宏
杉浦宏昭

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

野平 祐二

野平 祐二(のひら ゆうじ、1928年3月20日 - 2001年8月6日)は、元騎手(日本競馬会、国営競馬、日本中央競馬会(JRA))、元調教師(JRA)。千葉県船橋市古作出身。騎手としても調教師としても成功し「ミスター競馬」と呼ばれた。父の省三は元騎手(日本競馬会)、元調教師(国営競馬、日本中央競馬会)。孫の二本柳壮は騎手(JRA)。2004年、騎手顕彰者に選出。

目次 [非表示]
1 経歴
1.1 少年時代
1.2 騎手時代
1.2.1 オーストラリアへ遠征
1.2.2 海外競馬に対する関心が高まる
1.3 調教師時代
1.3.1 シンボリルドルフを管理
1.3.2 ルドルフの体調を巡って和田共弘と対立、絶縁
2 エピソード
3 通算成績
4 代表馬
4.1 騎手時代
4.2 調教師時代
5 門下生



[編集] 経歴

[編集] 少年時代
父の省三が騎手を引退した後、下総御料牧場で働いていた時に生まれる。幼少の頃から馬が身近にいる環境で育ち、小学校時代には馬に鞍をつけて乗るようになっていた。

尋常小学校を卒業後、関東中学に進学するが、騎手を志して退学。1942年、騎手見習いとして関東の名門尾形藤吉厩舎に入門した。


[編集] 騎手時代
1944年春に騎手免許を取得し、同年12月3日、東京修練場(現在の馬事公苑)において行われた能力検定競走で初騎乗。同月5日に初勝利を挙げる。

1945年4月に宇都宮市へ疎開し、日本競馬会の仕事に従事。毎日10頭近くの馬を1人で調教し、世話をするという過酷な労働と栄養失調から肉体と精神に変調をきたし、「どうせ死ぬならお国のために戦って死にたい」と決意。海軍飛行予科練習生乙科に願書を出願したが、受験日に指定された8月15日に太平洋戦争は終結した。

1946年に公認競馬が再開されるとこれに参加。1949年に尾形厩舎から野平省三厩舎へ移籍。1952年にスプリングステークスで重賞初勝利(優勝馬アサトモ)。1957年に公認競馬・中央競馬を通じて初となる年間100勝をマーク(103勝)。翌1958年 には中央競馬における当時の年間最多勝記録となる121勝をマークした(この記録は以後19年間破られることがなかった)。


[編集] オーストラリアへ遠征
1959年、オーストラリアで行われた国際競走に中央競馬のリーディングジョッキーと招待されて遠征。12月12日、カンタベリー競馬場で行われたレースで1着。海外のレースにおける日本人騎手初勝利を飾った。気性面に問題のあったアカタラワという競走馬を難なく御した野平の騎乗は現地の競馬関係者に賞賛された。野平自身、「海外の騎手とも互角にやれる」という自信を得た。


[編集] 海外競馬に対する関心が高まる
1967年 スピードシンボリで天皇賞(春)を制覇。同年、同馬に騎乗してワシントンD.C.インターナショナルに遠征(9頭中5着)。アメリカの一流競走馬の能力を目の当たりにした野平はオーストラリア遠征で得た自信を完全に打ち砕かれ、スピードシンボリの馬主・和田共弘と「外国の馬の強さの秘密を知るには積極的に現地へ足を運ぶ必要がある」という認識を共有することとなった。

1969年、再びスピードシンボリで海外遠征を敢行。キングジョージクイーンエリザベステークス(9頭中5着)や、凱旋門賞(24頭中10着)に騎乗。海外競馬のレベルの高さ、海外遠征の難しさを改めて痛感させられる結果となった。

1972年、和田共弘・北野豊吉・藤田正明ら馬主9名の協力を得て「日本ホースメンクラブ」を結成。目標は、馬主が出資した資金を元手に購入した競走馬をヨーロッパの厩舎で管理し、本場の大レース優勝を目指すというものであった。野平はフランスに長期滞在して競走馬の調達を担当。同時に騎手として現地のレースに騎乗した。 この遠征において野平は同クラブが所有するビバドンナに騎乗してドーヴィル競馬場で行われたレースを優勝(1972年8月27日)し、日本人騎手として欧州のレース初勝利を飾った。また、海外遠征を行ったメジロムサシに騎乗して凱旋門賞(19頭中18着)、ワシントンD.C.インターナショナル(9頭中7着)に出走した。

1975年、父省三の死に伴い、厩舎を引き継ぐために騎手引退を決意。同年2月26日、最後のレースとなった目黒記念に優勝(優勝馬カーネルシンボリ)し、騎手として有終の美を飾った。


[編集] 調教師時代
調教師免許取得日は1975年3月1日。同年8月に厩舎を開業し8月2日に初出走。同年12月7日、ホッカイノーブルで初勝利を挙げた。1976年、同じくホッカイノーブルでステイヤーズステークスに勝利して重賞初制覇。


[編集] シンボリルドルフを管理
1983年、シンボリルドルフを管理することになる。調教にまたがった野平はデビュー前からその非凡な素質を見抜いていた。1984年、岡部幸雄騎手や藤沢和雄調教助手らとともに綿密な調教プランを立て、シンボリルドルフを史上4頭目の三冠馬に育てる。それ以外に1984年から1985年にかけて有馬記念2勝、天皇賞(春)、ジャパンカップを制し7冠という偉業を達成した。野平は「競馬には絶対はないがシンボリルドルフには絶対がある」と天皇賞・秋の出走時に発言してぐらいに同馬には絶対的な信頼をしていた。


[編集] ルドルフの体調を巡って和田共弘と対立、絶縁
1985年、宝塚記念を前にシンボリルドルフの体調を巡り、それまでの経験から体調不良と判断した野平と「問題ない」とするシンボリ牧場場長の桐澤の見解が対立。このときは和田が折れてルドルフは宝塚記念に出走しないこととなった(実際には出走取消扱いとなっている)。

翌1986年、海外遠征を控えたルドルフの体調を巡って再び野平と桐澤が対立(宝塚記念のときと同じく野平が体調不良だと主張)。さらに遠征の日程を巡って野平と和田の意見が対立(和田はまずアメリカに遠征し、次いでヨーロッパへの遠征を計画。一方野平はアメリカを経由せずに直接ヨーロッパへ遠征するべきだと主張)していたことから和田と絶縁状態に陥る。関係の断絶は和田が死去(1994年)するまでついに解消されることはなかった。

2000年2月29日、定年により調教師を引退。翌2001年8月6日に肺炎のため死去。

2004年、JRA発足50周年を期に顕彰され、殿堂入りを果たした。


[編集] エピソード
日本にモンキー乗りを普及させたのは保田隆芳であるが、野平は保田に先んじてモンキー乗りを独自に研究し、レースで実践していた。
騎手時代には「プロの騎手はただ勝てばいいのではない。プロらしい技術を見せて(野平は「演技する」と表現した)ファンを魅了しなければならない」という美学をもっていた。また、幼少の頃から父・省三に「競馬関係者はジェントルマンでなくてはならない。ジェントルマンはフェアでなければならない」と繰り返し教えられてきた影響からフェアプレーに徹した。それは「他人を妨害するのはもちろん、妨害される(程度の技量しか持ち合わせていない)のもプロ失格である」というほどに徹底したものであった。1954年には1年を通じて制裁がなかったことにより、模範騎手賞を受賞した。
海外競馬への憧れや海外生活の影響から、欧米を範とした言動をとることが多かった。例として、前述のようにフェアプレイや「演技」の概念を強調したことが挙げられる。また、シンボリルドルフがダービーに出走した際には、ヨーロッパのダービーにおける調教師の正装である焦げ茶色のソフト帽を着用して観戦した。こうした振る舞いはマスコミに「ダンディー野平」と賞賛される一方、競馬関係者などからは「外国かぶれ」「キザな野郎だ」と陰口を叩かれることもあった。

[編集] 通算成績
騎手成績7280戦1339勝(日本中央競馬会発足以降1188勝)。
調教師成績3949戦402勝

[編集] 代表馬

[編集] 騎手時代
トサオー(1959年天皇賞(春))
カネケヤキ(1964年桜花賞、優駿牝馬(オークス))
スピードシンボリ(1967年天皇賞(春)、1969年・1970年有馬記念)
ヒカルタカイ(1968年天皇賞(春))

[編集] 調教師時代
シンボリルドルフ(1984年皐月賞、東京優駿(日本ダービー)、菊花賞、有馬記念、1985年天皇賞(春)、ジャパンカップ、有馬記念)

[編集] 門下生
藤沢和雄

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

函館 大経

函館 大経(はこだてだいけい(ひろつねと読むこともある)、1847年~1907年)は、日本のホースマンの始祖の一人とされる人物。元大日本帝国陸軍軍人、北海道開拓使職員、北海道庁職員。

日本、とくに北海道における馬術・競馬・馬の生産の発展に大きく貢献し、現代では『伝説の馬術師』ともして言い伝えられる。蛯子末次郎、深瀬鴻堂とともに「函館三士」の一人に数えられる。北海道様似村大字幌満村出身。出生時の氏名は斎藤義三郎で、小野義三郎、次いで函館大経と改名した。

目次 [非表示]
1 来歴
2 名前の由来
3 日本のホースマンの始祖
3.1 門下生



[編集] 来歴
1847年、斎藤源吉、ハル夫婦の四男として生まれる。やがて海産商・小野市右衛門の養子となり上京。昌平坂学問所において栗本鋤雲の下で漢学を学んだ。

明治政府誕生後はその軍隊(陸軍)に属し、1868年よりフランスの軍人ペルセルの下で馬術を習得。陸軍省兵学寮に所属していた1870年、東京招魂社例大祭において行われた天覧競馬において優れた乗馬技術を見せ、横浜レース・クラブ所属の外国人騎手とのマッチレースを制した。この活躍が明治天皇(当時北海道開拓使次官であった黒田清隆との説もある)の目にとまったことがきっかけで、のちに開拓使、次いで北海道庁に採用され、湯地定基の下で馬の生産技術向上、馬術の普及にあたるようになった。また、この出来事を境に名を「函館大経」と改めたという説がある。なお、大経と改名後も数回、明治天皇の前で馬術を披露している。

1881年、時任為基の提案により現在の函館市海岸町で行われた競馬に協力したのをきっかけに定期的な競馬開催を目指すようになり、1883年9月に北海共同競馬会社を設立。海岸町に競馬場を開設し、翌10月に競馬を開催した。同社は1890年に函館共同競馬会と名を変え、1896年、渡島国亀田郡湯ノ川村大字湯ノ川字柏野(現在の函館市駒場町)に現在の函館競馬場を建設した。

北海道庁を退官後は獣医、蹄鉄業を営み、後に「湯の川競馬会社」に勤務し、人々に乗馬技術を伝授した。その卓抜した騎乗技術は現在にも様々な逸話として言い伝えられており、中には「糸乗り伝説」といい、絹糸一本で馬を御したという話もある。

晩年、馬に蹴られた右足が思うように動かなくなった(一説では、牛に右足を蹴られて切断したとも伝えられる)が、その後も技術は健在で、難なく馬を乗りこなしたという。

1907年に逝去。函館市内に墓所はある。


[編集] 名前の由来
函館大経を名乗った経緯については諸説ある。

明治天皇からの下賜品を辞退した際、代わりに函館姓を与えられた。
北海道を視察中の明治天皇の目にとまり、函館姓を与えられた。
前出天覧競馬において明治天皇(もしくは黒田清隆)の目にとまり、大経(当時は小野義三郎)について尋ねた。側近が「あれは函館の小野(斎藤と言ったという説もあり)と申します」と答えたところ、「函館か。大慶至極である。」と言ったエピソードを誉れに思った義三郎が自ら改名した。

[編集] 日本のホースマンの始祖
大経の門下生からは、日本の近代競馬を支えたホースマンが数多く育った。現在もその流れを汲むホースマンは中央競馬、地方競馬、生産者などに数多く存在しており、日本国内でも最古かつ最大級のホースマンの系譜の一つである。たとえば武豊は武彦七の、大久保正陽は大久保福松の子孫である。

また第1回東京優駿大競走(現在の日本ダービー)をワカタカ号で騎手として制した函館孫作は大経の養子(血縁では大経の実弟)である函館大次の婿養子である。

なお、競馬界において著名な門弟とその系統の多くは中央競馬の組織に属しているが、中央競馬の騎手及び調教師には函館姓を持つ者は2007年現在いない。

函館孫作や孫作の婿養子の政一などが戦後は地方競馬の船橋競馬場で厩舎を開業していた事もあり、現在は船橋競馬場に孫作の養子(血縁では孫)である函館一昭調教師がいるのみとなっている(2005年までは同じく船橋競馬場に函館喜弘調教師(孫作の養子、血縁では孫)がいたが、2005年6月7日に管理馬に腹部を蹴られる事故に遭い逝去)。


[編集] 門下生
大久保福松
武彦七
杉浦武秋
佐々木勇太郎
坪内元三郎
高橋伊三郎
函館大次
二本柳省三

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

橋口 弘次郎

橋口 弘次郎(はしぐち こうじろう、1945年10月5日 - )は日本の調教師で、日本中央競馬会栗東トレーニングセンターに所属。宮崎県出身。宮崎県立都城泉ヶ丘高等学校卒業。


[編集] 来歴
公営佐賀競馬で瀬戸山重春厩舎所属の騎手としてデビュー。 騎手引退後は、調教助手として栗東・吉永猛厩舎へ移ったのち、松井麻之助厩舎を経て、調教師試験に合格した。

免許取得は1980年3月1日であるが、厩舎を開業したのは丸2年後の1982年3月1日。初出走(同時に初勝利)は同年3月13日の阪神競馬第2競走のハクサンレンポーであった。GI勝ちは多いが、それ以上にGIでの2着が多いことで知られる。管理馬には、ダイタクリーヴァやローズバドのように惜しくもGI制覇に届かなかった馬もいれば、ツルマルボーイやハーツクライのように幾度もの善戦の末にGI制覇を果たした馬もいる。

東京優駿(日本ダービー)に人一倍執着を持っており、「私の一年はダービーに始まり、ダービーで終わる」と語ったこともある。その考え方を表すように、1999年から2006年まで、8年連続でダービーに管理馬を出走させている。1996年にダンスインザダークで、2004年にハーツクライで2着に入っているが、まだダービー制覇の夢は実現できていない。

2006年のドバイミーティングでは、GIIのゴドルフィンマイル(ユートピア)とGIのドバイシーマクラシック(ハーツクライ)に勝利した。日本人調教師として、ゴドルフィンマイルの優勝はドバイダート競走の初制覇、ドバイシーマクラシックの優勝はドバイGIの初制覇であり、またドバイミーティング2勝も初のことであった。

これと決めた調教方針に固執せず、常に試行錯誤を続けながら馬を育てている。実績を挙げた調教師は若手であってもすぐに評価し、その調教方針から範を取って、自らの調教に取り入れることもある。そのため、レース週の追い切りなどにはしばしば変化が見られる。栗東トレーニングセンターに坂路コースが完成した際、いち早く調教メニューに組み入れた調教師の一人でもある。

また、熱烈な読売ジャイアンツファンで知られ、2006年5月4日の阪神甲子園球場で行われた、阪神タイガース対読売ジャイアンツ戦のラジオ日本ジャイアンツナイターにゲスト出演した。


[編集] 管理競走馬
括弧内はGI(斜字は統一GI、太字は海外GI)の勝ち鞍

レッツゴーターキン(1992年天皇賞(秋))
ダンスインザダーク(1996年菊花賞)
ユートピア(2002年全日本2歳優駿、2003年ダービーグランプリ、2004年・2005年マイルチャンピオンシップ南部杯)
ザッツザプレンティ(2003年菊花賞)
ツルマルボーイ(2004年安田記念)
ハーツクライ(2005年有馬記念、2006年ドバイシーマクラシック)
ロジック(2006年NHKマイルカップ)

[編集] 関連項目
小倉競馬場
大崎昭一
高橋亮

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

橋田 満

橋田 満(はしだ みつる 1952年9月15日-)は、JRA栗東トレーニングセンターに所属する調教師である。父はタイテエム(1973年天皇賞・春優勝)を管理した橋田俊三元調教師。1983年に調教師免許を取得し、1985年3月16日に管理馬が初出走、同年5月11日に初勝利を挙げる。


[編集] 管理馬
有力馬主である近藤利一や永井啓弍とのつながりが非常に強く、代表的な管理馬の名前にはたいてい「アドマイヤ」や「スズカ」の冠名がつく。逆にこの2人の馬主以外の馬でのGI勝ちはパッシングショットの1回しかない。以下にGIタイトルを獲得した管理馬とレース名を挙げる。

アドマイヤベガ(1999年東京優駿)
アドマイヤコジーン(1998年朝日杯3歳ステークス、2002年安田記念)
アドマイヤマックス(2005年高松宮記念)
アドマイヤグルーヴ(2003年・2004年エリザベス女王杯)
アドマイヤホープ(2003年全日本2歳優駿)
サイレンススズカ(1998年宝塚記念)
スズカマンボ(2005年天皇賞・春)
パッシングショット(1990年マイルチャンピオンシップ)
その他にも有力馬を多数管理しており、現役馬で代表的なのはアドマイヤメインやアドマイヤフジである。

2007年03月08日 トラックバック(-) コメント(-)

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